再訪3周目。
リフレクシヴ・ソシオロジーへの招待―ブルデュー、社会学を語る (Bourdieu library)
- 作者: ピエール・ブルデュー,ロイック J.D.ヴァカン,水島和則
- 出版社/メーカー: 藤原書店
- 発売日: 2007/01/01
- メディア: 単行本
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本日のご金言
…私がみなさんに教え込みたいと願っている姿勢のなかに、研究を合理的計画としてとらえる能力があります。研究を一種の神秘的探求として大げさに語るのは、自分を安心させるためなのでしょうが、逆に恐れや不安を大きくするだけです。研究を合理的な企てと見る現実主義の姿勢は…、投資の収益性を最大にし、使える時間をはじめとするもてる資源を最適配分することをめざしています。学問研究のこんなやり方はどこかしら人を幻滅させるもので、多くの研究者が抱きたがっている自己イメージを傷つける危険があることはわかっています。しかしながらこうした現実主義的姿勢こそ、はるかに深い失望を味わうことのないように身を守るための、おそらくは最良の方法であり唯一の方法なのです。研究者が淡々と自分の仕事をこなしていくよりも、自分の抱くイメージ、つまり研究者立つ自分自身について抱く、うわずったイメージに自分を合わせることに大きなエネルギーを費やしていると、自己欺瞞の長い年月の後で落胆を味わうことになります。/…誤りを取り除き、多くの場合誤りの源にある恐怖を取り除く一番の方法は、みんなでいっしょにその誤りを笑えるということです。 [p.271-272]
いいこという。
さて。だんだん何にイライラするのかわかってきましたよ。
収録されたインタビューで行われているのは、「いろんな社会学者からの批判に答える」というのと「ほかの社会学あれこれとブルデュー社会学の違いの開陳」というの。ふたつのこと。このうちの前者で紹介されている「(有名人とか偉い人とかによる)ブルデュー批判」の内容が、それを読んでるだけでもう疲れてしまうというくらいにすさまじいレベルの低さで、答えなければならないブルデューも切ないだろうよ というか怒って当たり前だよくらいのものなのであります。で、それに加えて、「ほかの社会学に対するブルデューの批判」というのが 同じようにひどい ので、読者としては さらに輪をかけて疲れてしまう、という事情になっているのでした。そんなこんなで神々の闘争と呼ぶにふさわしい理不尽さに満ちた なんだこりゃポカーン な書物になっているというわけです。
いくつかピックアップしてみるとこんな感じ。
■メモ
- [p.136] ジャーナリズムにおける「客観性」という近代的概念の登場について。Michael Schudson (1978) Discovering The News: A Social History Of American Newspapers
- [p.124] ヨーロッパの国民形成について。Charles Tilly (1990) Coercion, Capital and European States, A.D. 990 - 1992 (Studies in Social Discontinuity)
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- こんなのあった:書評 http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/ReCPAcoe/kazumidaisuke.pdf
- wikipedia|一冊だけ邦訳あり:『政治変動論』→港区図書館
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- [p.141] 「法をシステムと考えるルーマンの概念に対する短い議論として Bourdieu 1986g がある」[p.141] 。
- だれか400字くらいに要約して教えてください。1986, >>La force du droit, Elements pour une sociologie du champ juridique<<, Actes de la recherche en sciences sociales 64:5-19.
- [p.141] ブルデューとルーマンの系統的な比較。Cornelia Bohn (1991) Habitus und Kontext. Ein kritischer Beitrag zur Sozialtheorie Bourdieus
- [p.167] 「限定合理性」について。John Elster (1984b) に対する批判──「不誠実と誓約についてのサルトルの分析を繰り返し、同じ理由から同じ結果に終わっている」件──@『実践感覚』71-96
- [p.222] ヴァージニア・ウルフ『灯台へ (岩波文庫)』が「フェミニズム批評からも見逃され」て(!?)いる件。
ブルデューがEM批判のたたき台に使ってるのはおもにこの本:
The Ethnomethodologists (Key Sociologists)
- 作者: W. W. Sharrock,R. J. Anderson
- 出版社/メーカー: Routledge
- 発売日: 1986/02/01
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ところでブルデューものの邦訳では「object」に「客観」があてられることがおおい*けど、これは読者を惑わせるのに大いに役立つ工夫だとおもう。文例:
- 客観化をおこなう主体を客観化する
- 社会的世界を客観化するのを専門にしている人々が、めったに自分自身を客観化する能力を持っていない。
などなど。
* 現象学ものの翻訳でこの風習をみかけることがあるけれど、それがブルデュー翻訳事情に影響を与えているようにはちょっと思えない。なにかほかの事情があるのかな?
もちろん全部がこれで押せるわけではなく、たとえば次のような文章は「客観性」と訳さないとわけわからないでしょうけども。
- 反省性という視点を採用することは客観性を放棄することではありません。……つまり、科学的主体によって構成された客観性という観点それ自体から経験的「主体」を説明しようとつとめることです。[p.266]
でもこれだって──「対象」って訳すとつながりが見えなくなってしまうというなら──「客体」と「客観」で訳し分ければ、特に説明抜きでも読者には通じると思うんだけど。
そういえば、『社会システム理論〈上〉』『社会システム理論〈下〉』で Reflextion がみんな「再帰」と訳されていて、「再帰哲学」といった素敵な表現でもって日本語の限界に挑戦というかその可能性を拡げるのに貢献していたのとちょっと似てますな。