歴史的理性批判のアンチノミー

夕食。おうちにある本を読むよシリーズ。
面白かったのでもう一度読んだ。

■カンギレームがアロンを追悼する。
カンギレーム、アロン、サルトル、ニザンはエコルノルマルの同級生。という小ネタ。


[p.12]


■とても素敵な傾聴に値する伝統ある誤謬

下記引用文に登場する「歴史のアンチノミー」は、手短にまとめれば次のとおり:

  1. 歴史的出来事を理解可能にするには包括的な脈絡(=全体性)が必要である。
    しかし、
  2. 歴史の中に生きる有限な存在者である 我々は、全体性に到達することができない。

著者によれば、これを受けてアロンが──カントに倣って──展開したのが「歴史的理性批判」isbn:B000J9AO8A(1938年)のプロジェクトであった。

ついでに書いておけば、アロンがたどり着いた「回答」は「解釈学的循環」(類似物)。素敵だ。

これがちょうど70年前の議論。


 ここ 10年ほどの(日本の)「理論社会学」の動向をフォローしている(奇特な)人ならば すぐに気がつく事ができるのは、現在の「理論社会学」において、──けっして多数派とは言えないだろうが、しかしまた決して孤立しているともいえないだろう仕方で*──まさに同じアンチノミーが、意匠を変えて──今度は(なぜか)主としてフーコーの名のもとに──再登場している、ということである。 なにこの崩壊する新建築。

* (略)


 「アンチノミーに正面から取り組む」といえば なんだか聞こえはいいが、しかし──第三者的に見て──素朴に印象深いのは、これらの議論においてアンチノミー(or パラドクス)に出会ってしまうからには、そもそも議論の組立て方・問の建て方を間違えているのではないか」という方向への反省が 執拗に回避されている、ということである。
どうして、そこで資源として用いられている「理解可能性/全体性」という概念ペアそのものは、議論の中で主題的に吟味される事がないのか。たいへんに興味深い。


[p.82-92]

ところで──これは揚げ足取りだが──ここで「調整的」という言葉が使われているけど、「統制的」という言葉のほうを使うのがふつうだろう。

カントの語用にあわせて、〈統制的/構成的〉というペアの一項として登場しているのだから。

*1:西田 et al.