ハッキング『何が社会的に構成されるのか』

何が社会的に構成されるのか

何が社会的に構成されるのか

ああもう。なんと捩くれた議論でしょう。id:contractio:20070821:p1 / id:contractio:20071115:p1

ねじ回しは、ハンマーとして役に立たないとしても問題とはならない。意味論は自然言語の正しい記述ではない。意味論は目的に応じて自然言語を人為的に解釈する仕方である。これらの哲学的理論は、種々の目的にうまく合致すると私は思っている。現在の場合、指示の理論を社会的構成とともに使うことはディレンマの感じを減らす方法を示してくれる。もしこの意味論的アプローチがディレンマの感じを減らすという点で役に立つなら、それは本当の意味で貢献をしている。というのも、そのことによってわれわれは、分類の意味論よりもむしろ重要な問題、すなわち分類のダイナミズムと私が呼ぶものへと関心を向けることができるようになるからである。[p.269]

言語はなぜ哲学の問題になるのか』は「意味論」の本だった。『表現と介入―ボルヘス的幻想と新ベーコン主義』は「意味論」からの脱出の本だった。これ↑は、その脱出先で何を研究するのか、という話。であるように見える。

それはそれとして、ここで「ダイナミズム」──とか「歴史的存在論」とか──という語で指示されているところのものを、もう一歩踏み込んで言葉にしなければいけません。(誰かが

ところで『世界制作の方法』がどっかいった。



バスケットにものを入れるということは、そうしたものをあるひとつの仕方で見せるということだ。たとえば、それらを収穫物として、あるいは自然の恵みとして、さらに神への感謝に値するものとして見せるのである。私はバスケットからいくつかを再び取り出して、それらを別の仕方で見せようと思う。この章では、「有意な種類の選択」という、感じのよい婉曲表現で言われていることが、どれほど豊かで矢用で複雑な数々の出来事から成る過程であるかを示すために、一つだけ例を見ることにしよう。
 われわれが如何にして日常生活において新しい種類を選び編成するのか を理解するには、詳細な事例が必要である。その場合、進化する伝統についての事例が必要となってくるが、千年かかった進化の事例ではなく、ここ2,30年の進化の事例が必要となる。[p.282]



相互作用類と無反応類

 いくつかの 相互作用する種類 と、たいていの 無反応な種類 との間には、さほど目新しくない相違点がある。つまり評価にかかわるかどうかだ。人間についてわれわれがおこなう日常的な区分の多くは評価にかかわっている。では、科学的な区分──たとえば医学や社会科学による区分──はどうだろうか。これらもまた評価に関わっている。社会科学に出てくる種類の多くは逸脱の種類であって、典型的には、人間がその種類に属するのが望ましくないがゆえに興味をそそるような種類である。そうした社会科学は困っている人間を助けるために情報を与えることをめざしており、分類は、誰かを困らせている人間や困っている人間に評価を下している。したがって社会科学は価値を背負った種類──すなわち、すべきこととすべきではないこと──を提示している。言い換えれば、そうあるべき 人間の種類 とそうあるべきではない 人間の種類 を提示しているのである。ある種類に分類された人は、その分類に含まれている価値を気にするということもあって、変化し、その種類に対して作用し返す。[←ループ] われわれはたいてい善いものとして見られたいし、また自分の罪を悪いものとして告白する。[...]
 われわれの個人的価値に関するわれわれ自身の評価──つまり、われわれが属している道徳的な人間の種類に関するわれわれ自身の評価──を、分類は変える。これは、人間は、人間について専門家が言うことを受動的に受け入れ、自分自身をその観点から見る、ということを意味することもある。しかし、フィードバックはいろいろな方向に働くだろう。たとえば分類されたものたちの反抗がよく知られている。上から与えられた分類には、それが当てはまると想定される人間によって手が加えられる。同性愛の自由化は、このタイプの相互作用の最も成功した事例である。相互作用する種類は「人間の制作」に関わる。これは単純な話ではない。ある種類をある程度深く研究することによってのみ、その種類が以下に作用するかが理解できる。そして、ある一つの種類に関する研究は、ほかの多くの種類に光を当てるかもしれない。しかし、どんなにうまく事例を選んだとしても、それは、せいぜいあるグループの種類を理解するための手引きとして役立つに過ぎないであろう。すべての種類のモデルであることを目指すべきではない。モットーは「種々多様」である。[p.284-285]
 ... 私が反自動虐待運動や社会科学一般に関して何が間違いであるかを閉めるという改良をさらに行っていると見えるかもしれない。しかしそれは私の本意ではない。私の関心はむしろ、「児童虐待」「虐待者」「虐待された子供」といった言葉が種類を指す仕方と、そうした種類がわれわれに何をもたらすのかということにある。[p.287]