知識社会学的分析-と-概念の論理文法分析


ジュディス・ハーマンの仕事に対するハッキングのコメントについて。

... 彼女[ハーマン]によると、20世紀後半のフェミニスト運動が性的暴力と家庭内暴力とを問題化するなかから、心的外傷という記憶の領域が争点として公衆の意識に浮上してきたということになる(Herman 1992=1996: 7*)。 ここでは記憶という対象領域は、すでにその外に存在している政治や権力関係のなかから浮上し、またそのなかで参照されるひとつの挿話という位置をしめることになるだろう。

 しかしこうした説明では、これらの政治が なぜほかでもなく記憶という対象領域を対立の場所としなければならなかったのか は、不明なままである。

たとえば児童虐待が、多重人格の病因論という記憶の領域を通じて問題化されていく経緯について、先に触れた。しかし、なぜほかでもなく記憶という対象領域を通じてそれがなされねばならなかったのだろうか。こうした説明では、記憶という対象領域があらかじめ自明の前提とされている。したがってそれがどのようなポテンシャルを宿しており、どのような論理で政治と結びつきえたのか、またこの結合ゆえにこの政治にどのような特徴がそなわることになったのかが、問われていないのである。

 したがってむしろ、事態は逆からみるべきなのだろう。すなわち、記憶という対象領域はそもそもどのようなポテンシャルを宿し、またそれがいかにしてさまざまな人びとをしてこうした政治へと導いていくことになったのかが、問われねばならないのである(Hacking 1995**: 126)。こうした認識のもとにハッキングが向かうのが、記憶という対象領域の存在そのもの──記憶の実定性──とその由来なのである。
 記憶という対象領域が存在するということは、記憶についての一連の諸命題が存在していることと言いかえることができる(そして記憶についての事実とは、こうした命題のなかにあって真とされた命題のことになるだろう)。なおこうした一連の諸命題が存在するためには、その真偽に先立ち、そもそもそれらが有意味な命題である必要がある。したがって記憶という対象領域が存在するということは、言いかえれば記憶についての命題を、その真偽の判断に先立ってそもそも有意味に言いうる可能性のことであるといえるだろう(Hacking 1995: 198f.; 1999***: 171)。このような意味で、記憶の実定性とその由来への問いとは、記憶についての一連の命題を有意味なものとする「概念の文法」とその出現の様態への問いとなる。そして、人びとをして道徳的政治へ導いていく記憶のポテンシャルが明らかにされていくのは、この問いを通じてなのである。ここでは、記憶の実定性が政治へと結びついていくその論理を簡単にまとめておこう... [p.250-251]

ここでは、「なぜ-と-いかに」が──ついでにいえば「なにが-と-いかに」も──対照させられてなんかいない、ってことに注意しましょう。>誰か

むしろ「なぜ ほかならぬそれが、なぜ ほかならぬそこで、なぜ ほかならぬそのときに(以下略)」というのが問いかけの基本。
そこで haecceitas ですよ。id:contractio:20040726


「歴史的存在論」なる語の出自は「啓蒙とは何か」(1984) だそうで [p.261]:

このネーミングはちょっと....


ところで....。ここになにが書いてあるのかをいまようやく理解した俺がいるわけだが。(一年半かかったのか...)

ハッキングに言及する以上これら諸論考との差異を意識的に記述上に表示できなければならないとは思う。

http://d.hatena.ne.jp/Zephyrus/20060806

それ... 誰の仕事だと.......

あ、「記述上に表示」か。ならいいや(ぇ