門脇『理由の空間』

再訪。今回は嘗める様に。

  • 序論 志向性と「理由の空間」
  • 1章 知覚的志向性と生活世界──現象学は何をもたらしたのか
  • 2章 志向性と言語
  • 3章 言語についての規範主義の擁護
  • 4章 意図の自立性をめぐって
  • 5章 ハイデガーによる「理由の空間」の拡張
  • 6章 表象的志向性批判
いつかそのうち読むかも。
存在論アプリオリ

.. 存在論アプリオリの発想こそが、公刊されてわれわれに与えられている『存在と時間』の全体を支えるものであり、『存在と時間』におけるハイデガーの最大の貢献は、カントよりも広くかつ徹底してこの概念の可能性を探求し、カントからフッサールをへて自覚されつつあった「理由の空間」の考え方を拡張し、深化させたことにある。この主張を、『存在と時間』における三つの主要な存在論的カテゴリーである、道具的存在性、現存在、事物的存在性、のそれぞれに即して確かめよう。[p.146]

道具的存在者 と 適所性[Bewandnis / relevancy]

 道具的存在者の場合には、存在者と存在のあいだの存在論的差異は、

  • そのつど現存在が出会っている 個別的な道具 と その出会いを可能にしている道具連関の全体

の区別として導入される。

    • 現にある時点である特定の人によって使用されている道具は、
    • その道具の用途への指示連関なしには当の道具としては出会われることはないだろう。このような意味で現に出会われている道具の、あるいはこの道具との出会いの制約をなす道具の指示連関を、ハイデガーは道具の「存在(Sein)」、すなわち "Bewandnis"(適所性)と呼ぶのである。

道具の存在が、個別的な存在者との出会いの「可能性の条件」をなすという意味で、存在論ア・プリオリをここに確認できるというだけではない。ハイデガーはさらに次のように言う。

適所性の全体性、たとえばある仕事場にある道具的存在者をその道具的全体性において構成するその全体性は、個々の道具より≪より先なる(früher)≫ものである。(SZ, 112)

ア・プリオリ」と「理解可能性」

 道具の存在をなす適所性が 個々の道具より「より先なる」ものである、とはどういうことか。[p.147-148]
[...]
.. 道具の 適所性 は それ自身で完結した存在論的構造ではない。道具の適所性は、いつも人間の活動の何らかの方向づけに関連した適所性である。ひとつのハンマーは必然的に、その用途を通じて、人間の行為の何らかの方向──たとえば家を建てる、あるいはより一般に職人であること──へと、関連付けられている。

(もちろんここで私は、明示的・計画的な「目的」よりは広く、また心的状態としての意志の概念に訴えることのない意味で、「方向づけ」という言葉を使っている。)

ハイデガーは、こうした方向づけを 現存在の「可能性」と呼び、この方向づけこそが、あらゆる道具的な全体連関の「主旨、目的であるもの(Worumwillen)」として機能すると言う。道具的存在者の成立、道具との出会いは、適所性と適合した現存在の方向づけの統御のもとでのみ可能になる。ハイデガーの言う「適所を得させること(Bewendenlassen)」とは、道具の適所性のあり方を現存在の方向づけの側面からとらえた特徴である。[p.151]


まとめ

ここまでにわれわれは、コンテクスト性を成り立たせている四つの主要な要因を考察してきた。すなわち、

  1. 理解可能性
  2. 適所性[Bewandnis](あるいは適切な関連性[relevancy])
  3. 方向づけ
  4. コミットメント

という要因である。

  • 一定の理解可能性をともなった適所性は、
  • それが現存在の何らかの方向づけられたコミットメント とともに かつ そのために 現存在の活動のコンテクストに 適合する という意味で、
  • 道具的存在者の存在である。

道具的存在者の存在は、コンテクスト適合的である。一方 現存在の存在は、自らの諸可能性にとって関連のある環境に対応しつつ、何らかの一定の方向づけられた諸可能性へとみずからコミットする限りで、コンテクスト形成的なのである。[p.155]

ちなみに、ここに出てくる「コンテクスト」は、ハイデガーのテクストには「世界」という語で登場するもの。
石には世界がなく、動物には世界が乏しく、人間は世界形成的である、云々。という あれであります。


つづけて。
「了解」──「方向付け」と「コミットメント」──の更なる敷衍として、「企投(Entwurf)」の議論へ。

 方向付けとコミットメントとは、世界内存在する現存在の内存在の一契機としての「了解(Verstehen)」の、二つの位相を表している。

  • ハイデガーが、現存在の諸活動と道具のような世界内部的な存在者の間に生じる理解可能な諸構造──例えば、主旨・目的であるもの、世界性としての有意義性、適所性など──を組織化する、了解の位相に注目するときには、「可能性」という概念が前面に出てくる。私はこの側面を表すのに「方向付け」という言葉を使ってきた。
  • ところがハイデガーは、全面的なコミットメントという了解の位相を強調するときには、「企投(Entwurf)」という言葉を用いる。

[...] (SZ, 193)

 企投とは、道具の使用において全体論的構造が時間的に働いている仕方のことを指すという点には異論はないであろう。現存在自身の諸可能性への企投のゆえに、これらの未来へ向かった諸可能性は、現存在のそのつどの行為とそれに対応する道具のそのつどの出現とを、絶えずしかも本質的に不確定な仕方で方向づけ統御することになる。

たとえば、私に対してハンマーが現実に出会われているときには、この出会いは、自分の家を建てるという私の可能性によってすでに方向付けられ統御されてしまっていることが分かる。そのさい私の可能性が絶えずこの出会いを統御しているというのは、表象的に未来を予期することではなく 未来へと全面的にコミットすることが、ハンマーを打つ技能と、技能的に対処されるべき使用の状況との効果的な適合を可能にしているという意味である。

 さらに、そのような統御する私の可能性が不確定な未来からやってくるというのは、「私はハンマーを打つことによって私の家を建てる」というような確定的な命題的な表象が、私がハンマーを打つ際の個別の行為を導くことができないからである。ハンマーを打つ私の行為は、各瞬間において かけがえのないあり方で個別的である。

  • [不確定性] もし未来へ向けられた確定的な──サールの言う充足条件を定める何らかの命題内容の形をとった──表象が、このかけがえのない個別的な行為を導いているというのなら、こうした表象が個別的行為のあらゆる詳細をあらかじめ含んでいなければならないが、これは不可能である。
  • [確定性] 他方 行為のかけがえのない個別性が、統御も方向付けもなしに出現するのだとしたら、その行為はまったくの偶発事ということになってしまうだろうが、これは行為の記述としては受け入れがたい。
このようなディレンマに対する解決としては、
  • 先行的な表象に導かれている行為の要素と偶然にまかされている要素とを分ける
という手だてがあるだろう。しかし、導かれている行為の部分とそうでない部分とを、どのようにきっかり分けることができるのだろうか。ハンマーを打つ私の手慣れた運動の、どこが統御されどこが統御されない部分だというのだろうか。

ハイデガーの解釈は、このような区別をきっぱりと諦めて、

  • 私の行為の全体が 私の方向付けられた可能性によって不確定な仕方で非表象的に導かれている

とみなすことである。おのおのの行為の瞬間に、不確定な仕方で方向付けされ企投された可能性が、かけがえのない個別的な仕方で、自らを完成してゆく。完成された個別的な行為のあり方のすべてが、あらかじめ表象されていたわけではないことは言うまでもない。「私はハンマーを打つことによって私の家を建てようとした」という現存在の可能性についての確定的な表彰は、この可能性について回顧的に私自身に対して帰属させられたものであって、行為を導くことに貢献してはいない。ハイデガーが企投について語るところを見よう。

さらに、了解の企投性格が意味するところは、了解によって企投されているところのもの──すなわち諸可能性──を、了解自身が主題的には把握していない ということである。そのような主題的な把握は、企投されたものからまさに可能性という性格を奪ってしまい、それを心のうちに与えられた思念された状態 へと、引き下げてしまうことになる。(SZ, 193)

 しかし、完成された個別的な行為が、不確定な仕方であれ何らかの方向付けを受けていたことを否定する必要はない。個別的な行為の完成の根拠となるもの、回顧的に帰属させられた確定的な表象の根拠となったものが、私の可能性による方向付けのうちに存在しなければ、私の行為はつねにそのつどのまったき創発だということになるだろうが、このことは、現存在の「主旨・目的であるもの」が 適所性を組織化することを不可能にしてしまうだろう。[p.155-157]