涜書:ガーダマー『真理と方法』第1部

ようやく発見。1960年、ガダマー60歳の著作(たしかこれが「初の単著」だったはず。いろいろすごい)

真理と方法 1 哲学的解釈学の要綱 (叢書・ウニベルシタス)

真理と方法 1 哲学的解釈学の要綱 (叢書・ウニベルシタス)

第1部 芸術経験を手がかりとした真理問題の展開

  • 第I章 美学的次元の乗り越え
  • 第II章 芸術作品の存在論およびその解釈学的意味

ひきつづき第二部(isbn:4588001760)へ


■体験の概念史
 「体験」概念の歴史を詮索することによってガダマーは、「精神科学」の基幹語であるこの概念を擁護しようとしているのではない。

むしろその逆、

それを歴史的に的確に位置づけ・特殊19世紀的問題設定のもとにあることを明らかにすることによって、この概念(そしてそれが生み出す認識論的-美学的偏見)から距離をとろうとしているのであった。議論が登場するのは、目次でいうとこの箇所:

第I章 美学的次元の乗り越え

  • 第2節 カントの批判による美学の主観主義化
    • a カントの趣味論および天才論
    • b 天才美学と体験概念
      • α 天才概念の進出
      • β 〈体験〉という語の歴史について
      • γ 体験の概念
    • c 体験芸術の限界・アレゴリー復権

つまり〈体験〉概念は──「天才」概念が成り立たなくなったことがわかったときに、それへの対抗概念として登場してきたのだが──、「天才」概念と同様「主観主義」的-認識論的な土俵の上を動いている、というわけである。この概念の影響力が大きかったがゆえに

だからこそここでそれなりの紙幅をとって検討されている訳だが、

この箇所は 本書全体の中でも鍵となる位置を占めている。

体験概念の検討についてはこちら:http://d.hatena.ne.jp/contractio/196001


■体験概念の由来:

美的適意における〈生の感情の昂揚〉についてのカントの所説に促され、とりわけまたフィヒテによって天才と天才的創造の立場が普通的で超越論的な立場に高められたあと、〈天才〉の概念は包括的な生の概念へと発展した。このような経緯を経たあとで、対象のあらゆる妥当性を超越論的な主観性から導き出そうとする新カント主義が、体験こそ意識の本来的な事実であるとして、この概念に特別な意義を与えたのである。[p.88]

ここ──カントと新カント派の間──は あとでもう一度読む。


■トピックス:

β〈体験〉という語の歴史について

  • erleben は「直接性」と「結果・成果」の双方を含意する
  • Erlebnis という語は伝記──「作者の生涯から作品を理解する」試み──を通じて市民権を得た
    • ディルタイ『体験と文学』:ルソーがドイツ古典派に影響を与えることによって、生の概念を重視した運動が生じ、〈das Erlebtsein〉という尺度が力をもち、それとともに〈Erlebnis〉の造語が可能になった

γ 体験の概念

  • ディルタイにおける体験概念の二義性: 生きられた体験(思弁哲学的契機)/体験の成果(経験主義的契機)
      • →意識の最終単位は、カント主義や実証主義(ex.マッハ)にとっては「感覚」であるのに対し、ディルタイにとっては「体験」(という意味統一体)。
    • フッサール『論理学諸研究』第5研究: 認識論的基礎概念&無定義概念としての体験
    • ナートルプ/ベルクソン: 一瞬の体験の内への全体の現前
    • ジンメル: 冒険性。体験は「生の連続性の外にとび出ていると同時に、自己の生の全体との関連を保っている」
  • 体験一般の構造と美的なものの存在様式とのあいだの親縁性:
    • →「体験芸術」の登場: 芸術は体験から生まれる=芸術は体験の表現である

で、ガーダマーの狙いは、この「芸術は体験の表現である」という見方を突き崩すことのほうにあるわけです。


■概念史的検討から引き出される洞察:

[p.]


■本日の関心外の外
発売3年後に書かれた「第二版へのまえがき」がすばらしい。
ちなみに、一番最後に置かれた この箇所はハーバーマスへの応答なのだろうが、──反論はハイデガーへのものとセットで行われていて──ほとんど「足下にじゃれつく犬」扱いである。

 ここで最後の問題か引き出されてくる。すなわち、私か本書で展開した解釈学的普遍主義の方法的な転回よりも内容的な転回についての問題である。

  • 理解の普遍性は伝統に対する批判的原理を欠いており、いわば普遍的オブティミズムに献身するものである以上、内容的に見て、片寄った一面的なものではないかという問題である。
  • たしかに伝統というのは摂取獲得によってのみ存在することをその本質としているのかもしれないが、やはり人聞の本質には、伝統を打彼し、批判し、解体しうることも属しているのではなかろうか。そして、労働というあり方、さまざまな目的に向けての労働による現実の変革というあり方によって遂行されることがらこそ、存在に対するわれわれの関係においてもっとずっと根源的なものなのではなかろうか。その点で理解の存在論的普遍性は、一面的にならざるをえないのではなかろうか。こういった問題である。

──たしかに理解は単に、伝承された意見の摂取獲得や、伝統によって聖別されたことがらの承認といったことだけを意味するものではない。理解の概念を現存在の普遍的規定として特記したハイデガーも、まさに理解のもつ企投的性絡を、つまりは現存在の未来性を考えていたことは確かである。ところが私は、理解のもつ諸契機の普遍的連関の中で、過去のもの、伝承されたものの摂取獲得という方向を特に際立たせているのである。そのことを否定するつもりはない。

おそらくはハイデガーも本書に対して、多くの批判者と同じに、最後の帰結を引き出すラディカルなところがないと言うかもしれない。つまり、学問としての形市上学の終結とはなにを意味するのか。形市上学が科学となって終結するとはなにを意味するのか。科学が全面的なテクノクラシーと化し、〈存在忘却〉という〈世界の夜〉を、つまりニーチェの予言したニヒリズムをもたらしているときに、夕暮の空に沈んに太陽の最後の残光いることが許されるだろうか── 向きを変えて、再び昇る太陽の最初の微光をこそ求めるべきなのではなかろうか。
 たしかにこのようにも言えるかもしれないが、私には、解釈学的普遍主義の一面性は、それなりの矯正剤としての真理性をもっていると思われる。この一面性は、制作、生産、構築という近代の視点がどのような必然的な前提の下にあるのかを明らかにしてくれる。このことはまた特に現代世界における哲学者の役割に限定を与えることでもある。たしかに哲学者はいかなることからもラディカルな帰結を引き出すべき使命を負っているであろうが、予言者、警世家、説教師の役割を演じるのは、たた物知り顔をすることも含めて彼にそぐわないのである。

 人聞にとって必要なことは、まどわされることなく[ハイデガーのように]最後の問いを立て続けることだけではない。必要なのは、今ここにおいてできること、可能なこと、正しいことがなんであるかについてのセンスである。そうであればなおさらのこと哲学するものは、彼が自身に課す要求と、彼がその中にいる現実とのあいだにある緊張関係を意識していなければならない。
 ここで喚起されるべき解釈学的意識、目覚め続けていなければならぬ解釈学的意識は、科学の時代にあってもなお、哲学的思想か支配的であらねばならぬという要求はいささか幻想的であり、非現実的であるということを確認するものである。だがまたこの意識は、人間の意欲が、在来のものへの批判をかつてないまでにユートピア的もしくは終末論的意識へと高めようとするなかにあって、こうした意欲に対して、追想のもつ真理に基づいてなにかを対置させようとするのである。そのなにかとは、いまなお、そしていくたびでも現実的なもののことである。[p.xxvi]

どうしたってガダマーのほうが正しいだろ常識的に考えて。