再訪。
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相互行為秩序と会話分析―「話し手」と「共‐成員性」をめぐる参加の組織化
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第1章。
シャノンとウィーヴァーは、[コミュニケーションという] この過程の成立機序を、共有コードによる送り手側のメッセージの受けて側での「復元」に求めた。この考えは、コードの共有の不可能性という原理的批判を受けた
が(...)、にもかかわらずこの図式はコミュニケーションに関する常識的理解を集約したもの(...)としてのリアリティを失ってはいない。つまり何ごとかを伝えたと認識するとき、あるいは何ごとかを伝えられたと認識するとき、そこで生じたことを成分に分解して図示するとしたらおおむね[シャノン=ウィーヴァーの]これに近い図になるはずである。その後のコミュニケーション論が主張してきたのは、この過程を成立させるメカニズムが共有コード で は な い ということであって、コミュニケーションとはこのような構造を備えた活動 で あ る ということは共通の前提となっている。 この図は、コードモデルという一理論の説明図式であることを越えて、コミュニケーションという活動への根源的な常識的修辞としての「導管メタファー」(Reddy 1797*)の一種と見ることができる。
そして、サールにおける「反射的意図によって発話と効力を連結させる話し手」や リーチにおける「ゴールを指向する話し手」は、いずれもこのメタファーに基づく説明図式における決定的な理論的要素である。
このように見た場合、コミュニケーションという活動に関して別の問いの立て方も可能であることがわかる。すなわち、
- 「人々の振る舞いがどのように配列されることで、このような構造を持つ活動が成立していると認識可能になるのだろうか」
という問いである。この問いは
- 「どのようなふるまいの配列によって 話し手という立場が特定の人に割り当てられるのか」
- 「どのようなふるまいの配列によって チャンネルがつながっているという事態が成立するのか」
等の問いに分けられる。
この問いは他方で、相互行為における人々のふるまいは 通常の意味で「コミュニケーション」とは呼びにくいような仕方で組織されることもある、ということにも目を向けさせる。[...] 人々が相互行為の中で言葉を用いるとき、それは必ずしも 上の図式に示されたような「狭義のコミュニケーション=伝達」として組織されているとは限らない。[p.32-34]
* Reddy, M.J. (1979) The conduit metaphor: a case of frame conflict in our langage about language. In A. Ortony (ed.), Metaphor and Thought 2ed.
このように問題をたてることで、語用論的コミュニケーション研究には 2つの基本的難点があることが照射される。
- 第1に、理論的に特性を付与された話し手や聞き手の立場が 特定の個人に割り当てられていることを前提にしているために、たとえば
「何ごとかをいいたいとき、それを適切にいえるような状況に い か に し て 入 る か」(Goffman 1983a:32)という問いが見過ごされてしまう。要するに、そこでは 適切な仕方で 話し手 や 聞き手 に な る とはどういうことか という問題が考察対象から除外されている。だが、人々が実際の相互行為の中で有能な(competent)成員としてふるまううえで、これは基本的問題のひとつである。
- サールは 構成的規則を定式化するときに「正常入出力条件」という条項を立てることで、この点にかかわる実際的条件の違いを考慮しなくてすむ工夫を行っている(*)。
- スペルベルとウィルソン(**)は、送り手が「意図明示」によって聞き手に関連性の保証を与えるだけでコミュニケーションが可能だと論じているが、いかなるふるまいが意図明示 と な る のかは論じていない。
- 第2に、理論的に理想化された話し手の特性を前提とし、想像された発話文を素材としてコミュニケーションの分析を行う中で、実際の会話で生じる一連の現象が、「周辺的」「非本質的」な(さらには「不適切な」「未熟な」)現象として考察対象から除外される傾向がある。
たとえば、いいよどみ・いいさし・一文に満たない無用な繰り返し・文法的に不適格な発話・つっかえながらの発話・意味論的に無用な繰り返し・独り言・オーヴァーラップ、等々である。多くの場合、半ば無意識的に生じるこれらのふるまいは、従来の語用論のモデルでは適切に扱うことができない。しかし、これらのふるまいが実にありふれたものであることは、数分程度の会話を録画してみればすぐにわかることである。また、これらのふるまいが人間のコミュニケーション能力の重要な部分であることは、対話するコンピュータの製作を試みた研究者の告白(たとえば、岡田 1995***)から推察される。これらは、人間が言葉を用いた相互行為を通じてその社会文化的世界を産出していく営みの、不可欠の一部であると考えなければならない。[p.35-36]