いただきもの

どうもありがとうございます。

  • 是永 論、2009、「画像をめぐる相互行為の理解について──マンガにおける日常的光景の理解可能性を中心に──」立教大学社会学部『応用社会学研究』no.51

たいへん勉強になりました。
本論の分析が始まる手前(先行研究紹介)のところ:

ステップ1

 やや込み入った話なので、少し敷衍しながら[瓜生[2000]*の議論を]説明すると、

  • 1970年代以前の漫画評論は、大衆のもつ「共同性」鶴見俊輔による「限界芸術論」)や、「身体性」石子順による劇画分析)などを漫画の中に読み込むなど、ある意味で「反映論」として、読者の立場を不在なものにしていたという。
  • これに対して、80年代以降のマンガ批評は、マンガ読者としての「〈わたし〉」を特権化するとともに、その〈わたし〉の感覚への絶対的な信頼を基盤としていた。この〈わたし〉を繰り込んだ「マンガ読者」の存在を前提として成立したのが夏目房之介などによる]〈マンガ表現論〉であるという。

この「信頼」について、瓜生は次のように表す。

マンガの特殊性など、「一目見りゃわかる」のであり、外在的な分析概念など使わなくともマンガのマンガたる所以は説明できるのだ。(瓜生[2000:134])

 しかしながら、つづけて瓜生によれば、

  • このような「〈わたし〉語り」をドミナントとした〈マンガ表現論〉は、結局は 時代体験といった、表現に対して外在的なものを「棚上げ」(瓜生[2000:136])し、共時的・通時的な意味の成立を「外側から」見なかったために「失敗することとなった という。

 この議論を先の表現とともに、あえて読書行為の方に引き取ってみれば、人がマンガをマンガとして読めることは、「一目見りゃわかる」、つまり読者にとっての「わかりやすさ」に還元されることになるだろう。ここでようやく、マンガの読者論を必要とする石田らの問題意識に返って考えることができる。

    • [...] 〈マンガ表現論〉を含む従来のマンガ論の「失敗」とは、マンガという読書行為におけるエンコーディング/デコーディング過程を、その「わかりやすさ」に「ただ乗り」した形で、「一目見りゃわかる」ものとして未分化にし、さらにその「意味生成過程」について、その「外側」にある社会構造とともに等閑視していたために生じていたといえる。
    • 逆にいえば、
* 参照文献にあがってないんだけど。これのことですかね:

ステップ2

 



  • 菅原 謙、2009、「「(社会)制度」の諸概念について──ひとつの分類の試みと寸評」、早稲田社会学会『社会学年誌』vol.50
  • 芦川 晋、2009、「コミュニケーションにおける「伝達の意図」とその「理解」について──ポール・グライス再訪」、早稲田社会学会『社会学年誌』vol.50