げと。
- ラルフ・ドライヤー「ニクラス・ルーマンの法概念」(福井康太・服部寛訳)
- 作者: 青井秀夫,陶久利彦
- 出版社/メーカー: 東北大学出版会
- 発売日: 2009/02
- メディア: 単行本
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- 原論文:Ralf Dreier, Niklas Luhmanns Rechtbegriff Archive für Rechts- und Sozialphilosophie (ARSP) Bd.88 (2002), S.305 ff
まぁまぁよい論文なのではないでしょうか。法律学のひとはこういうのが気になるのねー、というのがわかって面白い。
このあたり↓は考えどころ/見解のわかれるところでしょうな。
ここまで述べてきた一連の区別を振り返ってみると、
ということが示されている。すなわち、[そこでは]
- 構造概念とならんで法のコミュニケーション概念が用いられている。
その際、ルーマンは、明らかに後者を優先させている。もっとも、いずれの概念も、同一の現象の二つの側面を表すものであり、〔ドライヤーの考えるところでは〕本来的には、構造概念を優先するほうが適切である。
- コミュニケーション概念にいう意味では、法とは、法システムにおいて法としてコミュニケイトされるものである。
- つまり、法とはコミュニケーションメディアであり、法システムのなかをいわば流動する。その実在性は、合法/不法のコードに定位するコミュニケーションたる出来事が持続的に結合される過程のなかに存する。
- しかし、この合法/不法への定位は、構造としての法に関連するのであり、それ故、構造概念はコミュニケーション概念に対して体系的に優位に立つ。
法のコミュニケーション概念とは、「行動における法(Law in Action)」概念の極端なあり方なのである。そこに見出される動態化は、構造概念に波及効果をもたらすが、これは、法的構造が、法的コミュニケーションを通じて繰り返し新たに圧縮され再認される場合、言い換えれば、変更され継続形成される場合に限られる。──これは、法律家には「法の滞りない妥当形成」としてなじみのある現象である。[p.446-447]
【1】「つまり」の前後。
「法としてコミュニケイトされるもの」とは「コミュニケーションメディアである」と述べている*。
でもそんなこと言えるか?(反語)
【2】著者は、「合法/不法への定位は、構造としての法に関連する」ということが、「構造概念を優先するほうが適切である」という主張の理由になりうると考えているらしい。しかしそんなこといえるか?(反語)
著者の指摘のとおり、「法概念の二重性」というそのことは検討が必要な問題であるかもしれないが、
しかし、その問題を検討するのに「構造と作動ではどちらが優先的なのか」という問いを立てる必要はない(だけでなく、そんなやりかたは問題の解明には寄与しない)よ。
もっと別のことを考えないと(=別の問いを立てないと)ねー♪
著者のひと続けていわく──こちらのほうがより深刻な問題であるような気がするが──:
[p.447]
ここもおかしい。
■ルーマンにおける法概念の法学からみた性格付け
- 一般的な理解に依拠するなら、ルーマンの初期の法概念は、
- もしそれが、現実の承認にではなく、一般的な承認の用意に焦点をあわせているとすれば、法の承認説のグループに分類することができる。
- ルーマンの法概念を修正的に、つまり近代社会の実定法に適合するように組み立てなおして理解するなら、彼の初期の法概念の内容は、正当性という要素を括弧にいれて、制定性の要素と実効性の要素を特殊な組み合わせのもとに置くということに依拠している。
- ルーマンの法亜疑念は、こうした理解についていえば、とりわけルーマンのモノグラフィーである『手続を通しての正統化』(1969)において有名になった。
[...]
- 法コードが観察図式として果たす役割は、規範の裁判適用可能性という意味で理解されうる。そしてその役割は、法規範と非-法規範とを境界付け区別するに際し、法律学的にも用いることができる基準を提供する。
- 法のコミュニケーション概念自体は受け入れることはできない。[p.456]
勉強になります。
「法のコミュニケーション概念とは、「行動における法(Law in Action)」概念の極端なあり方」だから、ってことなの???