げと。
- 三上剛史(2003)「リスク社会の共生空間──不知のエコロジー」 in

- 作者: 今田高俊
- 出版社/メーカー: ミネルヴァ書房
- 発売日: 2003/12
- メディア: 単行本
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「新しい社会運動」などの抗議運動に見られる、リスクを生み出す側(抗議される側)と危険を告発する側(抗議する側)の、それ自体が危険にみちた対立関係に関心を払うならば、「エコロジー的コミュニケーション」を分析するための概念装置として〈リスク/危険〉という区別にも意味がある。とはいうものの、多くの場合、われわれがどこまで決定の当事者であり、どこまで特定の決定の被害者であるかを明確に線引きするのは困難であるから、あまり〈リスク/危険〉という区別にこだわりすぎるのは得策ではないかもしれない。[p.169]
とほほほほ.....。んもーーーーーなにいってんのーーーー!!!
(困難-であるにも/であるかどうかに-かかわらず) 「決定(者)」や「被害(者)」についての線引き──帰属の様態と帰趨──が問題になることがあり、コミュニケーション参与者たちが それに「なんとかして」取り組んでいる ・・・・ということがあるからこそ、それが社会学的観察の対象になりうるんでしょうに。
彼/女たちに代わって学者先生たちが「線引き」してくれよう──彼/女たちの人生を代わって生きてやろう──てなことあるはずもないよね?
私たち(あるいは彼/女たち)の人生・暮らしが
私たち(あるいは彼/女たち)の人生・暮らしが
明確に線引きすることが困難であることに満ちていることは、社会学的記述の不可能性を帰結するわけじゃないよね?
〈リスク(or 危険)/安全〉ではなく 〈危険/リスク〉で
というルーマンの提案は、
- 「損害(or 損害の可能性)についてのコミュニケーションを 決定の帰属手続きに焦点をあわせて観察しよう」という(社会学的な!)提案とペアになっていて、
- その作業のためには、どういう概念を用意するのがよいか、という関心のもとでなされている
ものですよ。