承前:http://d.hatena.ne.jp/contractio/20090419#p2
- 岡野一郎(1994)「『生活世界-システム』連関と近代社会──ハーバーマスによるシステム論の受容をめぐって」 in
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問題設定
[...] ハーバーマスはシステム連関それ自体を否定しているのではない。彼にとっては生活世界のフェイス・トゥ・フェイスな場の自立的再生産がシステムの再生産と両立するところまで持っていければ、十分であるように見える。
しかし、以上のように考えるならば、現代社会分析は次のようなものになる。本来人間の知識は技術的な面でも、道徳的な面でも平行して発達すべきなのに、何かの手違いで、近代以降技術的理性が一方的に発達してしまった。そのために それに見合うだけ十分発達していない道徳的領域は、技術的理性に翻弄されている、というわけだ。この場合、問題はコミュニケーション的行為の領域にあることになる。
しかし、ハーバーマスは、一方で、これとはかなり異なった見解をとっている。すでに見たように、生活世界の植民地化をもたらした直接の原因は、システムの内部矛盾、すなわち統合を志向する政治システムとあくまで個別利害にささえられた経済システムとの間の矛盾なのである(これはハーバーマスがとりわけクラウス・オッフェから借りてきた命題である)。しかも、ハーバーマスはこの文脈において、民衆の道徳意識が未だ脱慣習的な、普遍的な段階に達していないが故に、システムに従属するのだと言っているわけではない。意識はすでにその段階に達しているのである。達しているからこそ、システムは自らの矛盾を隠微しなければならず、生活世界に介入してくるのであった。もしも私たちの日常意識が前近代的なままであれば、[...] わざわざ政治的無関心を培養する必要はない、ということにもなる。すると、この場合、コミュニケーション的行為の領域には、特に問題はなく、システムが問題の焦点になる。
このあたりにハーバーマスの議論の不明瞭さが現れているように思える。そしてこのことは、システムを戦略的行為に結びつけたことの是非に関わっているようだ。ここで、ハーバーマスによるシステム論(機能主義)の受容に関わる問題を考える必要がある。[p.94]
なんか議論があちこち壊れているよ。
なかでも重大なのは、二節で、
パーソンズと
ルーマンの議論を簡単にフォローしたあとで ハバーマスの議論に対する帰結をまとめたところ(二節の最後)。
これが三節=最終節での結論的考察の前提になっているので、この論文の価値を左右するテーゼであるはずなのでありますが・・・
著者のいわく:
さて、以上の議論から、次のことを明らかにできるだろう。すなわち、
- (1) 「戦略的行為」は、ルーマン流のシステム論と親和性がある。
- (2) それに対して、「コミュニケーション的行為」は、パーソンズ流のシステム論と親和性がある(したがって両立可能である!)。
〔だから、〕近代化に伴って、(1) と (2) が次第に分断されていくことは、必ずしもコミュニケーション的行為と(パーソンズ流の)システムとが分断することを意味しないのである。
ここ読んで椅子から転げ落ちそうになったよ。だって、それ以前の議論のどこを引っ張ってきても こんなまとめはできそうにないもん。
- 一方で。著者によれば、〈戦略的/コミュニケーション的〉という(対人)行為類型上の区別は、そこに「確認と合意」が含まれているかどうかによるものだという。〔一節〕
- 他方で。パーソンズとルーマンを扱った節において著者が論じているのは、象徴的に一般化したコミュニケーションメディア(abb. SGCM)という概念装置が、〈システム間関係に関わるのか(←パーソンズ)/(対人)行為に関わるのか(←ルーマン)〉という違いなのである。〔二節〕
これら一節と二節での著者の検討の妥当性についてはさておくとして=仮に これらの妥当性をすべて認めたとしても、
ここから引き出せるのは──著者の見立てとは異なり──、たかだか、
- パーソンズのいうSGCMは、システムとシステムの間に位置するものなので、
〈戦略的/コミュニケーション的〉という類型には直接かかわらない。
- ルーマンのいうSGCMは、(特殊な)対人行為の間に位置するものなので、
〈戦略的/コミュニケーション的〉という類型に直接かかわる(可能性がある*)。
というくらいのことだろう。
* さらに、「「SGCM のもとでの相互行為」には「確認と合意」は含まれていない」ということが示せれば、「
ルーマンのSGCMは戦略的行為と親和的である」という主張まではできそうだけど。
一方で。この議論は、
パーソンズのいうSGCMと「コミュニケーション的行為」との親和性については何もいっていない。(→(2))
そしてまた他方で、もしも後者から、
- 「戦略的行為」は、ルーマン流のシステム論と親和性がある。
という主張を引き出すのならば、同じ権利で、
- 「コミュニケーション的行為」も、ルーマン流のシステム論と親和性がある。
という主張も引き出して*もらわねばならない。(→(1))
これらの主張に私は賛成しないけれども。
* あるいは少なくとも、この点についても検討はしていただかないといけない。
そして・・・、こんな議論には意味がない。
これによって確認(?)できるのは、「〈戦略的/コミュニケーション的〉という区別は、(対人)行為の類型である」という出発点に置かれた前提だけだから。
■追記
それはさておき。
この論文を読んで、「著者自身は、〈生活世界/システム〉という対抗的分類図式を捨てるつもりなんだろうな」と予想したのだが、そうではないらしい。ずっと新しいこの論文では、なんと、「説明図式」としてバリバリに使われまくっております。(読んでしまった!)
現代社会って複雑だな。
■文献