拾遺

要確認点

リクエス

  • 〔理性:1998〕注24:

[24] ルーマンは、自からは社会理論を展開しているのであり、それをどう生かすかはそれを読む側に委ねられているという態度をとっている。彼自身が実践哲学と社会理論の共同領域を積極的に開示してきたわけではない。法理論に対しても、ルーマンとしては自らの社会理論が外在的な刺激を与えるのを期待するばかりである(Vgl., RG, S.496ff)。しかし、既に指摘があるように私は、この態度はルーマンの誤解に基づくと考える。Vgl., Tomas Schwinn, "Funktion und Gesellschaft: Konstante Probleme in der Systemtheorie Niklas Luhmanns", 1995, Zeitschrift für Soziologie, Jg.24.

  • 例えば、或るシステムの状態と或るシステムの状態とどちらが複雑性が高いか、社会理論は独力で決定できるのだろうか。
    • あるシステムの変教を割り当てることでそのマクロ状態を特徴づけることは、自然科学では極めて平凡な操作である。膨大な数の水分子からなるコップに、温度という一個の変数を割り当てるというのも、その一例に他ならない。
    • しかし、このような操作は、社会システムに対しては妥当しない。社会システムの場合、システムに参与する人々の視点の異他的複数性を前提にせざるを得ない(そもそもこの点を明確にしたのがルーマンの「コミュニケーション的転回の意義 (b)」だったはずである)。その場合、誰の視点を標準にしたらいいのか。あるいは複数の参加者の視点から見た複数の複雑性の度合いから一個のシステムの復雑性への写像が、存在するのか。規範的・評価的議論に踏み込まずして社会理論が独力でこれらの問題に解を与える方法を考えることは困難であろう
以上の点において私は、Schwinn に賛成する。しかし彼がそれ故に「システム論」に対する「行為論」の優位を主張するのは即断に過ぎると考える。そもそもルーマンのシステム論を「システム論/行為論」の二元図式で裁断することが疑わしい。この点については、 Vgl., Marthisa Heidenescher, "Zurechnung als soziologische Kategorie: Zu Luhmanns Verständnis von Handlung als Systemleistung", 1992, Zeitschrift für Soziologie, Jg.21

「規範的議論」に踏み込むとシステムの複雑性が決められるって?????
よくわからん。ここは「複雑性」概念に依拠せずに主張を再定式化してほしいところ。