ひきつづき。
第8章「法的論証」VI節。議論とターミノロジーの中間的まとめ。
- 作者: ニクラスルーマン,Niklas Luhmann,馬場靖雄,江口厚仁,上村隆広
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 2003/12/01
- メディア: 単行本
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言葉の使い方の確認。
「システムの統一性に」って? ここ原文を確認のこと。
以下 若干の敷衍↓
[根拠と妥当]
- 根拠について問うことにより、妥当シンボルのトートロジカルな自己言及が分解され、展開され、脱トートロジー化される。
- 妥当するものは、妥当するがゆえに妥当する。──最初いえるのはこれだけである。十分な根拠が存在する筈だ、との推測がなされるのは 後からのことである。
- しかしこの推測を跡づけていくこともできる。「妥当しているものは、根拠をもって妥当しているのか」と 問えばよい。
- 妥当を、当該の規範を適用するための根拠として、ゼマンティクの上で二重化すれば、そこから妥当根拠についての問いが発展してくることになる。たとえば《法源》についての学説は、この問いに答えようとしているのである。[...]
正義という 超-基準に狙いを定めることによって、さらに遠くまで進むことができる。
[妥当→正義〜一貫性→〈冗長性/多様性〉]
- 法の妥当 という問いに関して決定を下すのを助ける という点では、この[正義という]基準は役立たない。
- それゆえに正義は、倫理(のみ)の基準であると 見なされているのである。妥当の問題は、法と倫理の区別へと分解される。
- その帰結として、法的実務においては正義の要求を、法的には無害であり論証の上では不毛なものとして扱うことができることになる。
- 一方、正義の過程を 諸決定間の一貫性 の過程(等しい事案は等しく、等しからざる事案は等しくなく扱うべし)として解釈すれば、さらに一貫性を冗長性として把握しなおすこともできる。つまり[〈冗長性/多様性〉という]区別の一方の側として、である。
- だとすれば、他方の側、すなわち変異性は 明らかに、法の世界において正当に生じるのを妨げられていることになる。
- 変異性と冗長性の区別は、[...] 我々の関心事には別の側が付属している、という洞察をも与えてくれる。
他の側、というのは、──テクストの解釈者が考えるであろうような──それほどよくない根拠だとか、根拠づけられていない(《決断主義的》な)決定などではない。システムが十分な(近代的な諸条件のもとでは、高度の)変異性を有する という用件こそが他の側なのである。[p.503-504]
「法の世界において正当に生じる」? ──実際には「生じている」のだが、正当には扱われていない、というくらいの意味かな?
[論証と冗長性→(帰結としての)多様性]
決定を要する法律事案は、そのつど具体的に、それゆえに異なったかたちで 登場してくる。したがって法システムは、その相違を考慮するように求められることになる。
- 論証は、この要求をとりあげて、それを冗長性へと変換する。
- それは、適用されるべき決定プログラムを単に引き合いに出すことによっての場合もあるし、決定プログラムを規則によって補完することをとおして という場合もあるだろう。
- その規則のほうは、適用可能性が多数存在するという点に関してテストされ・圧縮され・再認されている。
- それゆえに、論証は冗長性のために作動する。[...]
- ただしそれは、事案をめぐる実践の中で生じてくる問題がもつ個別的特性と対決する中でのことである。
以上の結果として、十分な冗長性を備えた高度の変異性をもたらすような形式の方へと向かう進化が、生じてくることになる。[p.504]
[...] ただし、諸々の法律事案とそれ特有の問題がきっかけとなって 多種多様なコミュニケーションが生じてくるとしても、それらのコミュニケーション自体が システムの環境を再現するわけではない。法律事案は、そしてまたそれに関連するコミュニケーションは、システムの内部において、システムにとってのみ存在する。[...] システムはいかにしてその環境を、ゼマンティクの上で構成するかという問題については、別の概念を用いて後で論じることにしよう*。[p.505]* [→8章VIII節。「利益」という概念によってそうする、と論じられている。]
[論証理論、行為理論、システム理論]
通常の場合、論証理論は行為理論の前提のもとで定式化されている。しかし、根拠の探求 から 変異性/冗長性の図式 へと移行するとともに、[...] この前提を維持することはできなくなる。つまりシステム理論への移行が必要となるのである。
- そこ[システム理論]ではもはや、論証するということは、多少とも成功したりしなかったりする 行為 としては現れてこない(...)。論証は、ひとつのシステムのなかで、大量にかつ同時に生じる出来事なのである。それは明確な輪郭をもたない。[...]
- 論証の海には小さな波が立っている。この海全体の意味を、個々の作動の目的から認識することはできない。[...]
全体の意味は、そもそも論証がなされているという事実の機能としてのみ、認識できるのである。そしてその点こそが、変異性と冗長性という概念規定によって表現されなければならないのである。[p.507]
なんと、ここには「法解釈学」という言葉が出てこない!