アップされるのを待つしかないか、と思っていたところ....
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『霊長類研究』特集:社会の学としての霊長類学(vol24 No2)
- 特集の趣旨説明(中村美知夫・田代靖子・伊藤詞子)
- 西江 仁徳「チンパンジーの「文化」と社会性──「知識の伝達メタファー」再考」
- 北村 光二「「社会的なるもの」とはなにか?:他者との関係づけにおける「決定不可能性」と「創造的対処」」
- 中川 尚史「ニホンザルのオス・メス間の友達関係は何のため?:社会生態学の有効性と限界」
- 標的論文に対するコメント
- デイビッド・S・スプレイグ「旧友オス」の謎
- 足立 薫「連続とギャップ」
- 曽我 亨「霊長類学を人類学と接続する」
- 室山 泰之「「社会」は解明されつつあるのか?」
- 森 明雄「コメント」
- 藪田 慎司「「社会性」は霊長類に特有の現象か」
- 伊藤 詞子「コメント」
- コメントに対する返答(西江、中川、北村)
- あとがき(田代・中村・伊藤)
おおざっぱに一読。
三つの論文の著者たちが、なにゆえ 霊長類学には「社会」や「文化」といった概念が必要である
と考えているのか ということは、私には結局わからなかった。
また、「個体-と-社会」とか──「要素還元主義-と-全体論」とか──「実証主義・行動主義-対-状況論」などなどの 大鉈が振り回されていて かなり たじろいだ。あまり生産的にはなりそうにないこういう議論の打ち出し方はやめて、「フィールドで観察可能なのは、実際のところ、どんなことなのか」という点に焦点をあわせた議論をすればよいのになぁ──せっかくデータたくさん持ってるらしいのに、もったいないなぁ──というのが一読しての印象。
同じ事は、それを批判する側の「行動主義 v.s 擬人法」のような対比にも言える。この対比・対立のもとで議論をするまえに、まず ここには「振る舞いの同定」*という、双方(!)にとって同様に必要とされる 研究作業上のステップがあることに注目したほうがよいのではないか。
「擬人法」と非難されている側は、「振る舞いのタイプの同定」を、役割カテゴリー(ex.「ボス」)に関わらせた形で用いていることが非難されているのだろう。 他方、「行動主義者」の側は、振る舞いのタイプを、役割カテゴリーを用いずに行うことで、「科学的にニュートラルな」記述を目指そうとしている(のだろう)。 だから、あくまで対立に固執したければ、「人類学的研究において・役割カテゴリーを用いる権利」についてこだわってみせれば良い。
しかしそうした「論争」を楽しむ前に、まず、双方に関わりのある事柄として、「観察可能性・記述可能性──そして、読者の理解可能性──をどのように確保するのか」という問題を、またその問題と上記「方針」(の違い)との関係を、双方ともに検討してみて──そして、つき合わせてみる、という手順を踏んでみて──もよいのではないか。
──と思った。
ともかくも、「人間についての研究は霊長類の研究のための一つの鍵である」ということは言えそうであるくらいには、エスノメソドロジー研究の知見などが──おそらくは かなり直接に(?)──霊長類学者のお仕事に役立ちそうであるらしいことが予感させられて、その点は興味深くも勉強になりました。
■メモ
- 西江論文:
- 北村論文:
タイトルにいう「決定不可能性」とはなんだろうか。この言葉が登場する箇所:
[p.112]
- 中川論文:
■文献そのほか
- 西田利貞(1981)『野生チンパンジー観察記 (中公新書 618)』
- 伊谷純一郎(1982)『大旱魃―トゥルカナ日記 (1982年) (新潮選書)』
- 動物行動の映像データベース:http://www.momo-p.com/
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