九鬼一人「ヴェーバー理解社会学における価値分析」

シュルフター本の傍らに。

構成

  • 一 価値分析の仮説的側面
    • (一) 中野解釈の概要
    • (二) 『古代ユダヤ教』の方法論的検討
    • (三) 経験主義的解釈の限界
  • 二 理解の意味的契機
    • (一) 説明一元論と理解
    • (二) 論理結合論証の登場
    • (三) 行為の意味の理解
  • 三 解明における価値分析の位置
    • (一) 意味適合性と理解
    • (二) 理解の検証可能性
    • (三) 因果適合性と解明の論理

課題

中野の著作[isbn:B000J7C5FC]においても 価値分析が「恒常的動機」(Konstantes Motive [...])に関する仮説の提示 と見做されるため、理解としての価値分析の必須性が 十分、明らかになったとは言いがたい。筆者の見るところ、この難点の一端は、ヴェーバーの動機の概念が曖昧であることに由来する。すなわち、〈事象に属する原因〉と〈意味に属する理由〉とが、ともに動機と呼ばれるために、価値分析の成果が「因果的説明」にとっての「仮説」 におとしめられるのである。とすれば原因と理由の混同を対自化したのちに、はじめて理解社会学における価値分析の役割が鮮明となろう。[p.143]

本稿では

  • まず中野の貴重な研究成果を追跡し、「再構成」に必要な論点を押さえる。
  • それを受ける形で、アーペルの『超越論的語用論から見た説明-理解-論争』[isbn:3518061097]を援用し、〈社会学における理解〉にまつわる現代的問題を析出せしめる。
  • そののち、ヴェーバーの因果適合性と意味適合性の関係を論じる。

こうした手続きによって、価値分析が 今日の〈行為の推論図式〉と接点を有することを明らかにし、ひいては今日におけるヴェーバー理解社会学の意義を見定めたいと考える。[p.143]

中間部までの議論のまとめ

三 解明における価値分析の位置

(一) 意味適合性と理解

 中野のヴェーバー解釈は次の三つのテーゼにまとめられる。

  • A 価値分析という理解の一形態は因果的解明に先行すること。
  • B 因果的解明は価値分析が与える恒常的動機を検証すること。
  • C 価値分析は「仮説」の提示という機能を果たすこと。

 アーペルにひきつけて、それぞれのテーゼにまつわる問題を定式化してみると──

  • A どのような仕方で価値分析は因果的説明と区別しうる独自性を有しているのか。アーペルは行為の意味理解を挙げる。しかし、いうところの「意味」の内実が問われなければならない。ヴェーバーが行為理解において、どのように「意味適合性」を考えたのかが関係してくる。
  • B 理解社会学の叙述はいかにして検証しうるのか。論理結合論証の〈推論図式〉[の]ように、理解が合理性を前提とするものであれば、経験を通じてえられる「動機」は検証しがたい。なぜなら、行為が合理的であると前提すればいくらでも反証不可能な〈推論図式〉を考えることができるからである。
  • C 理解とは結局、アーペルがが言うように「前学問的-発見的」な仮説の役割しか演じないのであろうか。この問題は研究当事者にとっての、発見の文脈と叙述の文脈を区別することによって解決できる。意味適合的な行為と言えることは、因果適合的であると叙述が完遂されることと無縁でない。[p.151]


■プチコメント
「解明」という作業において、「理解」は、「因果的説明」に帰しえない独自の意義を持つはずだ、

ヴェーバーの考案を今日の哲学的文脈において継承的に発展させるためには、ヴェーバー自身が創出した 因果適合性と意味適合性 という概念装置を峻別しなければならない。すなわち意味的理由の理解に固有の役割を認定する必要がある。価値分析はそうした役割を果たす作業に他ならない。」[p.154]

という著者の主張には賛成できるし、検討はいろいろ勉強になったけれども、この論文では「経験」「因果性」「合理性」などなどといった概念たちの検討が行われていない

ので、これらの概念が未分化なまま用いられている

ところが残念ですな。たとえば次のような主張。ここでは、「価値分析」のほうは検討されていても、「経験」のほうは検討されていないように見えるわけです:

三-(二) 理解の検証可能性

 さてそこで、価値分析が経験とどのような関係を持つかを問わねばならない。理解社会学は、経験と接点を有しないのならば、経験科学という身分を失いかねないからである。

価値分析が一種の因果的説明であるとしたら「演繹法則論的」な叙述が正当化される。実際に説明一元論からは、人間事象に因果的法則を見出そうとする試みが繰り返し提出されてきた。

 その場合、意味適合性に対する因果適合性との概念的相違が問題となる。[p.152]

「経験」概念を放置したままで「経験科学」を論じてしまえば、いくら「理解」の独自性を云々したところで、議論が結局は、「理解は説明のサブ」というところにオチるのは自明の理ではないでしょうかね。

ウェーバー論としてはそれでいいのだ」ということなら、それはそれで「理解」できますが。

このように:

 目的合理的行為者は 他者がある『意味をもった」行動をすると仮定する。とするならば、他者の行為の意味連関を「根拠にして」、経験的に「目算」を立てられる行為を予想でき、この予想を理由として行為すると[ヴェーバーは]いうのである。〈他者の行為の予想〉を理由とする意味適合的行為イコール(..)目的合理的な行為なのである。そうした行為者は、目的に適合した手段を「目算」するから、行為の理由に対して 統計的な根拠を求めようとする だろう。つまり、理由となる予想が、客観的法則によって知られるチャンスに基づくことを要請する。したがって、目的合理的行為者の行為自体、規則的かつ安定的となり(WZ 572)、統計的に見て因果適合的性を満たすようになる。かくて目的合理的行為の〈推論図式〉は 因果的法則とも〈調和〉し、法則の検証を通じて確かめることが出来る(vgl. WZ 444)。[p.153-154]

行為者自身が他者の振る舞いに対して「統計的な根拠を求めようとする」って件りで、私は自分の目を疑いましたですよ。(俺は そんなことしないよ!)

まぁここの部分に対する文句はヴェーバーに言うべきなんでしょうけども。