ときどき参照したくなる文章を未来の俺のためにピックアップしておく。
『社会的システムたち』ISBN:3518282662 に関する評価論文を集めた論文集にルーマンが寄せたリプライ論文。
普遍理論
... いずれにせよ私は、オートポイエーシスをめぐる討論を聞くたびに、へルダーリンが同時代人であるこの自然科学者について述べていたことを思い出してしまう。
人々はゼンメリングにならって、みごとな肉体構造を透視するのは好きだ。
だが、銃眼までのぼろうとすれば、階段はあまりにも険しすぎる。銃限── それは自己言及性に他ならない。自己言及性とはすなわち、空無なものによって充実せるものを、否定的なものによって肯定的なものを制約することである。誰もが、頑丈な尖塔がそびえ立っているのを自にしている。社会学者は尖塔に穿たれた銃眼のありかを見抜くことができる。
- 銃眼は下を向いている。それゆえ大半の社会学者も、銃眼までたどり着こうとするかわりに、下方へと視線を向けることになる。「肉体構造を透視する」ほうを選ぶのである。
だが、もし階段を発見しそれをよじ登ることができるとしたら、そしてその結果銃眼を間近から探査することが可能だとしたら、そのような疎外批判の作業はなお意味をもっているといえるのだろうか。 答はイエスである。だが、経験的研究を拒絶したり排除したりするわけではもちろんないにしても、もう一つの道筋も存在しているということを忘れてはならない。それはすなわち、概念的な分析能力と、理論的精確さをさらに追求していくというやり方である。
第二の道を進んでいこうとするのなら、少なくとも、対象領域すべてをカバーしうる普遍的能力を備えた理論 を求めようとするのであれば、もはや自己言及性というこのテーマを回避することはできなくなる。[p.110]
赤字部は、ルーマンの謂う「普遍理論」なる言葉のもっとも簡単な敷衍。
「普遍理論ならば自己言及的でなければおかしい」という主張についてコメントをいただいた(id:takemita:20090726#p2)。
上記定式の前提を明示的に書き足しておくと:
- 社会学理論は社会現象である。つまり、それは社会学の対象領域に含まれる。したがって、
- 社会学の対象領域のすべてにアクセス可能であることを標榜する普遍理論ならば、当の理論自体をも扱えるのでなければおかしい。
三谷さんの指摘は、
- →「理論」を「社会的なもの」だとは捉えない議論・論者も有りうる。
- →ルーマンが「対象領域」と言う際に、それが「社会学の対象領域」(〜社会的なもの)であることが[ルーマンによって]明示的には述べられていない。
Unwahrscheinlichkeitstheorem*
「ダブル・コンティンジェンシー」の章に出てくる議論(ISBN:4769907427)。
これが、〈正常(or 通常)/逸脱〉区別を用いる議論作法と対照されたものである、というのがわかる箇所。
この問題のさらに背後には、学的関心の「ハビトゥス」についての問いが控えている。対象を観察する能力をより高めるためには、理論を次の二つのうちのどちらの方向に向けるべきなのだろうか。
- 第一に、まず正しいものを仮定しておいて、そこから逸脱する現実に関心を向けるというやり方。
- 第二に、ありそうもなさを仮定することから始めて、反対方向に働く原理を探究するというやり方。
- つまり、「ありそうもなさが存在するにもかかわらず、形式が可能になるのはいかにしてなのか」と問うわけだ。
- 第二の関心方向は結局のところ、ありそうなことのなかに、ありそうになさの痕跡を見いだそうとする。
- あるいはありそうなものが苧んでいる危うさを、またありそうにないことをありそうなことへと転換する作業から派生してくる問題を、明らかにしようとするのである[8]。[p.113]
私自身はルーマンのこの主張には賛成しない。というのも、
- この対照によって「ありそうになさ」という概念が積極的に規定されているとはいえないし、
それだけでなく、 - 事柄を、このような「二者択一」のもとで捉えることは 拒絶しうる*
から。
- 「まず正しいものを仮定しておいて、そこから逸脱する現実に関心を向けるというやり方」を拒絶するのであれば、論者は、
- 「ありそうもなさが存在するにもかかわらず、形式が可能になるのはいかにしてなのか」と問うことになる(or 問うしかない)
とはいえ現状の議論水準で より重要なのは、なにしろまずは、「ありそう」だとか「ありそうにない」とかいう言葉でもって いったい何が謂われようとしているのかさっぱり明確ではない、という点だと思う。
あたりまえのことをあえて書いておくと──
〈正常/逸脱〉と〈ありそうである/ありそうにない〉とは違う区別である*。だから、ルーマンも──2つを組み合わせた──「正常なもの-の-ありそうになさ」なる表現を用いることが出来るわけである。しかしこの表現を用いるのならば、「〈ありそうになさ〉なる概念のもとで、積極的には何を主張しているのか」について、〈正常/逸脱〉区別に頼らずに語る事が出来なければならない。
* 歴史上には、「ノーマルであること」を「(統計的に)ありそうであること」とを重ね合わせて議論した論者もいたわけだから、「違う」と指摘すること自体が「まったく無駄」だとはいえないけれども、まぁ大して価値のあることとは思えない。(だってあたりまえだからな!)相互浸透
『社会的システムたち』の「相互浸透」の章における失敗について。
(5) [...] 相互浸透の概念を彫琢するのが難しいのは、このような理由[=相互浸透はコミュニケーションではない]による。
コミュニケーションの理論を用いて相互浸透を定義・説明することを放棄するのは、無謀だとすら思われるかもしれない。それでは相互浸透について論じること自体ができなくなりはしないか、と。だが、前節で示唆したような可能性がまだ残されている。つまり、問題を社会次元から時間次元へと拡張するのである。そして相互浸透を、システムと環境のコンタクトの一般的形式であると考えるわけだ。システムと環境のコンタクトは(つまり、相互浸透は)出来事の同時性によって可能になるのであって、他の契機は必要ないのである、と。
(6) だとすれば出来事というものは、同一的でありかつ異なっているということになるのだろうか。ホワイトヘッドのコスモロジーを知っている読者なら、このような聞いを提出したところで奇異には感じないだろう。だがこの問いから別の問題が生じてくる。統一性をオートポイエーシスのなかで再生産するということは同時に、パラドックスを産出しそれを有益なものとして用いるための手段でもあるのではないか。両眼によってものを見るという事態が孕んでいるパラドックスを考えてみればよい。そこでは同じものが異なる形をもって受け止められ、そしてまさにそこから空間の奥行きが開けてくるのである(21)。この難しいテーマについてもまた、『社会システム理論』を著した段階では回避せざるをえなかった(あるいは、ごく簡単にしか論じえなかった)。本当ならば、以下の議論のようなかたちで詳しく論じておくべきだったのだが。[p.116-117]
(21) 同時性がもつこの機能についての研究は、主として生物学の分野で進められている。社会学に関していえば、アルフレート・シュッツの著作のなかに、同種の議論の痕跡を見いだすことができる。「他者の体験流の同時性」についての断片(Der sinnhafte Aufbau der sozialen Welt. Eine Einleitung in die verstehende Soziologie (1932)[ISBN:3518276921, ISBN:3518290673]〔佐藤嘉一 訳『社会的世界の意味構成―理解社会学入門』[ISBN:B000J7MS3G]、木鐸社、141頁以下〕)を見よ。
- ついでに述べておくならば、「間主観性」の問題に関するシュッツの議論も、システム論的に解釈しなおすことによって新たな意味を獲得しうるかもしれない。つまりそれを、意識システムのオートポイエーシスとコミュニケーション・システムのオートポイエーシスとの関係についての議論だと考えるわけである。そうすれば、「相互浸透」をめぐる問題圏や社会化論と関係づけることが可能になる。
- 『社会システム理論』のなかでの相互浸透をめぐる論述(第六章)では、この点を十分に考慮できなかった。それについて論じるには、認識論的な準備作業がまだ不十分であると思われたからである。だがその結果、相互浸透の概念に関して多くの不明確さと疑念が生じてしまうことになった。今となっては、相互浸透と間主観性の関係というこの論点を除外するべきではなかったと思っている。[p.123-4]