内藤『いじめの構造』

積んである本の消費週間。

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

いじめの構造―なぜ人が怪物になるのか (講談社現代新書)

  1. 「自分たちなり」の小社会
  2. いじめの秩序のメカニズム
  3. 「癒し」としてのいじめ
  4. 利害と全能の政治空間
  5. 学校制度がおよばす効果
  6. あらたな教育制度
  7. 中間集団全体主義

ちょっと感動しつつ読了。「いじめる側の論理」──いじめる側の被害感情 etc.──をこんなに明晰に描いた本は見たことがない。
あと面白かったのは、著者がしばしば「学校的・教育的レトリック」を流用(ダチコウツク?)する形で「いじめの論理」──学校的集団生活-による/における-隠れたカリキュラム──のモデリングに用いていること。なんというか、著者自身の恨み辛みが学術的に昇華されている感じもするが、他方でそのことが、学校的・教育的レトリックがなぜ役に立たないのかを同時に述べることにもなっている。ような気がする。

 中学生たちがいじめを「遊び」と言い、弱者をなぶり殺しにするような行為を「遊んだだけよ」と言うときの「遊び」とは、こういった〈祝祭〉的な共同作業のことであり、それは 集団的な「生命」感覚[ルビ:ともにいきる] を構成する、きわめて重要な営みである。そして、このような「遊び」を通じて、「自分たちなりの自治的な」倫理感覚や「あたりまえ」がかたちづくられ、「ノリは神聖にしておかすべからず」という独特な小世界の秩序が生じる。ノリで響きあう「みんなの空気」は彼らの秩序の根幹であり、人の命よりも大きな価値がある。
 このようなノリの秩序から、独特の身分感覚が発生する。それは、ノリという「高次の生命」のそのときそのときのありさまからい続けられる限りでの、身分的な人間の存在感覚=〈分際〉である。そのなかで、人は〈分際〉に応じて「すなお」でなければならない。
 「すなお」とは、上位者や「みんな」の一挙手一投足に合わせて人格状態が即座に変化ていると思われるように、下位者がふるまうことである。[...]

 下位者を「すなお」にするのが「しつけ」である。[...] 人間を「すなお」に「しつけ」るためには、予測不能な仕方で、上位者や「みんな」の気分しだいで恣意的に「痛めつけ」るほうが、理にかなっている。このような予測不能で理不尽な「痛めつけ」によって、まわりの顔色を伺い、不安なレーダーのように反応して状況しだいの人格を生きる、「いま・ここ」人間が育成される。学校は、このような「こころがとけあう」群生秩序の社会に順応させるという教育目標からは、[...] 実に「理にかなった」教育空間となっている。 [p.127-128]

ただし、著者の主張はもっと強い。(=現在の学校の仕組みこそがいじめを作り出し・支えている)

 現行の学校共同体制度は、身の安全をめぐる利害関係を、構造的に過密化する。そこでは、他社の気分しだいで、自分が「安んじて存在している」ことができるための足場が、容易に掘り崩されてしまう。「生き馬の目を抜く」ように、いつなんどき「友だち」や「先生」に足をすくわれるかわからない苛酷な環境では、「身の安全」「大きな顔をしていられる身分」といった希少価値をめぐる人間関係の政治が、過度に意味をもつようになり、そして、とてつもなく肥大する。すなわち学校が全人的な「共同体の学び」となるように意図された設計が、最低限の安全を保つのに必要な社会的資源のコストを暴騰させ、そこから過酷な政治空間を生み出すのである。[p.166]




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