上山さんへのお返事、その3です。
- 上山さんのレポート: http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100112
- 酒井コメントその1: http://d.hatena.ne.jp/contractio/20100112#p2
- 酒井コメントその2: (1/17 早朝)http://d.hatena.ne.jp/contractio/20100113#p1
- 上山さんの応答1: (1/17)「《臨床》という言葉の周辺(メモ)」http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100117
- 上山さんの応答2: (1/19)「場所の方法論」http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100119
その2の続きを書こうとしてたところでしたが、その後 上山さんの次のエントリ(応答1)があがりましたので、そちらのほうにあわせた応答に変更します。
【30】 「臨床・治療・介入」再訪
【31】
「その2」のコメント欄にはこんなご意見をいただきました。
なまえです 2010/01/17 12:45
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20100113#c
- 臨床というと、医学以外で今一番メジャーな使い方は臨床心理学(心理士)ぢゃないでしょうか。
彼らも病人ばかりを相手にしているわけではありませんよね。
なんで臨床なの?ということを考える時にはこの人たちがダントツの大所帯かと。
だからどうしたというわけではありませんが、いちおう。
なるほど。
私は臨床心理士の方がどんな仕事をしているのか ほとんど知らないのですが、「病人ばかりを相手にしているわけでは」ない、というのはそうなのでしょうね。 ただ、臨床心理士の場合は、【臨床心理士/クライアント】という役割ペアのもとで仕事をしているのではないですか?
そして、いまの話の関連でいうと、私が気になっていることのひとつは、【医者/患者】とか【臨床心理士/クライアント】のような制度的な役割ペアに相当するものが、「社会学-と-そのフィールド」との間に 見出せる(or 成立しうる)のか、という点なのでした。
その話の流れで。
【32】
上山さんには改めて「臨床」についての考えを敷衍していただきましたので、それを見てみます。
いまのところやはり、一般論として、私自身は、社会学者の研究活動を、「臨床」「治療」「介入」のような非常に灰汁の強い言葉で表現しようとすることに対しては、躊躇せざるを得ません。さらに、上山さんが、「臨床」という言葉を 「治療」とは区別されるべき何か を指示するために用いようとしていることがわかってみるとなおさら──その議論の重要性は直観的に理解できるだけに──、
むしろ却って、「そういう微妙な話を、性急に ありもん・はやりもん(=いまの場合は「臨床なんとか」) に依拠して組み立てるのってどうなの?」という疑念が、新たに湧いてもきます。
ただ、今回のお返事で、上山さんの主要な問題関心がどのへんにあるのか、ということまではおぼろげながら見えてきた感じもするので、さしあたっては「臨床」という「言葉」を手がかりとしつつも、そこから問題関心の中心方向へと議論を進めていくことができたら、と思います。
上山さんいわく:
私が《臨床》という言葉を使ったのは、次のような趣旨です。
- 既存の方法論が、何か尊重しなければならない現実を無視しており、その黙殺が私たちを苦しめているので、方法論レベルでの工夫によって、その現実に取り組み直そう。それによって、私たちの苦しさを和らげよう。
エスノメソドロジー(EM)を理解しようと努める中で、それが私の必要とする《現実への尊重》に近いかもしれない、と感じたことから*4上記の質問を試みたのですが、[...]
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100117
おそらく、ここでいう《現実への尊重》に相当するものは、エスノメソドロジー研究の中に指摘できそうだ、と一応は・直感的には思うのですが。
ただ、同時に次のことも指摘したほうがよいように思いました。つまり、エスノメソドロジストが取り上げるトピック(or 対象領域)は、「苦しみのある」ものには限られない、ということです。 ・・・これは あえて指摘するほどのことはないように思われるかもしれませんし、あるいは「揚げ足取り」だと思われるかもしれません。が、そうではありません。というのは、社会学業界の間でEMの悪名を高からしめた理由のひとつは、まさに、
- 社会には「問題」や「苦しみ」が実際に生じているのだから、社会学者はそうした「取り上げるに値する事柄」を扱うべきであるのに、エスノメソドロジストは しばしば「ありふれた・あたりまえの・トリヴィアルな──したがって、取り上げる価値のない──事柄」を扱っている
ということだったわけですから。いま私は、さしあたって直接には、
- 「EMは、問題のあること・苦しみの生じているところも、問題のないこと・苦しみの生じていないところも、どちらも同じように取り上げる」
という この指摘を、、
- 「EMは 苦しみを和らげる活動としても理解できるのではないか」
という主張への──少なくとも部分的には──「反論」となるもの として対置しようとしています。それはそうなのですがしかし、同時に直観的に思うのは、こうした姿勢はおそらく、「現実の尊重→苦しみの緩和」へとつながっていく論点でもあるのではないか、ということです。その繋がりは いますぐにはうまく言葉にできないので、ただ指摘しておくにとどめざるを得ませんが。
上山さんの今回のエントリには──ほとんどの人にとってはどうでもいいけど──私にとっては重要な情報が含まれていました。
[...] 臨床論としてよく言及される中村雄二郎『臨床の知とは何か (岩波新書)』(1992年)*3では、学問という常連客に置き去りにされた主人公を《現実》とし、「近代科学が無視し、軽視し、果ては見えなくしてしまった現実、リアリティとはいったいなんであろうか」と問われています(p.27)。そうそう! そんなのありましたねぇ。*3:中村氏が既存の領域を参照しつつ《臨床の知》を言いだしたのは、1983年だそうです(p.80)。
日本で初期のころに「臨床」を云々していたのが──私の嫌いな──(「書評哲学者」こと)中村雄二郎だった ということが、私のこの言葉に対する(非常に悪い)イメージを決定付けてしまっているところがあるのかもしれず、そうだとすると・ひょっとすると私は、この言葉に対してかわいそうな扱いをしちゃってるのかもしれません。ちょっと反省。
[...] では私はEMの何に臨床性を見たのか、そもそも私が考えたがっている臨床性はどういうものか*5――整理し直す必要を感じています。(質問の前に徹底すべきことですね…)
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100117
まぁ、やりとりをしてみてわかること、というのもありましょう。
ということで、次のエントリでは、引き続く議論のための準備として、──「臨床」という言葉を少し離れて──今度は逆に、上山さんの応答のうち、こちらからアクセスできそうな箇所を探してみることにします。
でもあまり長くなると読むのもたいへんなので、今日はここまでにしておきます。
【50】 追記的質問: 「今の時点でのメモ」について
エスノメソドロジーでは、「研究者自身にとってもこの活動は臨床的意義を持ち得る」という、取り組み主体の構成プロセスのモチーフが見当たらない(⇒樫村愛子)。[...]
http://d.hatena.ne.jp/ueyamakzk/20100112/p1
ここで言われている「取り組み主体の構成プロセスのモチーフ」とはどんなものでしょうか。
リンク先も見てみましたが いまいち見当がつかないので、もうちょっと敷衍していただけれますれば幸甚。