新年(研究)会の中心課題について

 このエントリでは、新年会の検討課題──[a] 「社会空間」概念に焦点をあてたうえで、[b] ブルデューによる 計量的手法の使い方を中心に検討すること──について敷衍する。

参照文献は、後ほど適宜追記する。

 この課題の前提となっているのは、下記の「見立て=見通し」である。これらは あくまで、私の・現時点での暫定的な「見立て=見通し」であって、間違いを含んでいるかもしれない。これら自体、ブルデューのテクストに即して検討(そして、必要に応じて修正)されるべきものであるが、ここで あわせて その作業を行う準備はない:

  • 【P】 ブルデューエスノメソドロジー批判の中心には、「社会空間」や「界」などの概念がある。
  • 【Q】 ブルデュー社会学における「理論」の位置は、通常の経験科学において ひろく採用されているものに おおむね 等しい。
  • 【R】 ブルデューの学説形成史における「社会空間」概念の登場と、調査技法論の深化には関連性がある。双方の点で、「社会空間」概念は ブルデュー社会学にとって 画期を為す重要性をもつ。


 大枠では、「ブルデュー社会学エスノメソドロジー」の比較を念頭に置きつつも、単純な二者比較を避けるための第三項として、この企画では計量社会学を選択した。ブルデュー社会学を検討する際に 「社会空間」に焦点を当てることに疑問をもつひとは おそらく少ないだろうが、しかし、比較対照のために──候補はあれこれありうるだろうに、ほかならぬ──計量社会学を選んだことのほうには 疑問をもつひとが少なくないかもしれない。

ブルデューが、教育課程における哲学的訓練を経て 人類学者としてキャリアを出発させたことを思えば、なるほどこの疑問はもっともなところがある。

そこで以下では、主として 後者[b] について敷衍するのがよいだろう。

【P】社会空間

 ブルデューエスノメソドロジー批判の一つは、「エスノメソドロジーには「社会空間」や「界」に相当するものがない(からダメだ)」という形式をもっている(このことは、私の報告の中で触れる)。すると、それに直接反論したければ、「それに相当するものは、実は 存在する」か、「そんなものは、必要ない。」か、のどちらかを言えばよい。

さらにもう一歩手の混んだことが言いたければ、「社会空間」概念のほうを腑分けしたうえで、「或るものは存在し、或るものは必要ない」と言えばよい。

しかし、その前に 知っておくべきなのは、

  • 「社会空間」という概念は、他の概念との間にどのような関係を持った理論装置を成しているのか。
  • それはいったい何のために必要なのか。
  • 「社会空間」に関する知識を、ブルデューは、どのようにして得ることができるのか。

ということのほうだろう。そして、「社会空間」は理論的概念だから、まずは、ブルデューにおける「理論」の位置を考えておく必要がある。

【Q】理論の位置

ブルデューにおいて「理論」とは、

  • [1] 現実・現象そのものではなくて、学的観望者が抽象によって構築するモデルであり、
  • [2] 経験的研究をガイドし、データを説明するために導入されるとともに、データによって修正を被るものであり、
    そしてその限りで、「理論構築」は学の目標である
  • [3] うまくいけば、現象に関する予言を可能にするものである

といってよいであろうが、このおおまかな定式のレベルでは、理論に関するこのヴィジョンは、経験科学で広く採用されているものだといえる。

他方、エスノメソドロジーは、こうした意味での「理論の構築」は まったく目指していない。
この点を顧慮しない二者比較は不毛だが、しかしブルデューエスノメソドロジーに関して理解していないことの一つが、まさにこの点なのであった。そして、ブルデューからEM への批判は「EM には理論が欠けている(からダメだ)」という形式をとることになる。
いずれにせよ、この場所で単純に二者比較をしてみても、議論は「理論構築を目指すか/目指さないか」という大ざっぱなものにしかならない。

 ところで、社会学において、上記のヴィジョンをそれなりにうまく遂行できているのは計量社会学であろう。

いわゆる「質的」な研究の中にも このヴィジョンを採用しているものはあるが、計量社会学に匹敵する水準で 遂行できているものは無いように思われる。

 だから、ブルデューにおける「理論」の位置について立ち入った検討をしたければ、まずは計量社会学のそれと比較してみるのがよいだろう。これが、参照項として計量社会学を選ぶことの、最初の・弱い理由である。

ブルデュー-EM」の二者比較をすると、「ブルデュー社会学が理論をもつ」ことが、あたかも「よい」ことのように思われる人も少なくないだろう。しかし──私の予想では──計量社会学と比較してみると、むしろ「ブルデュー社会学は過剰に理論的・理論過負荷だ」という評価が出てくるのではないかと思う。

 もちろん、ブルデュー社会学の検討が、計量的側面だけで済むとは 私も思わない。けれども、計量社会学との比較は、何が「それでは済まない」のかをはっきりさせるためにも役立つはずである。そしてそのあとでなら、EM との 少しはまし な比較を行うことができるかもしれない。

私自身は、計量社会学との比較のあとで なお残る検討課題は、非常に少ないのではないかと予想しているのだが。
【R】調査技法論

「理論」が前項のような位置にあることからして、ブルデューの理論装置は、調査の方法論と結びついている(〜建前上、結びついていないとおかしい)。そしておそらく、特に「社会空間」概念は、調査技法の採用・使用に際しても、様々な理論的概念の蝶番の位置にくる枢要なものなのだろう。つまり──これはより詳しい学説研究を待たなければならないところではあるが──、

  • 調査技法との関連でいえば、「社会空間」概念は、計量的な技法の採用と軌を一にして登場する

もののようであるし、そのことと相即して、

  • 理論概念のレパートリーという観点でいえば、初期の頃から存在していた「ハビトゥス」「資本」などの概念は、「社会空間」概念の登場のあとで・「社会空間」概念のもとで、統一的に再考され・再配置を受けている

といってよいようである。

 ブルデューが経験的調査によって「社会空間」に関する知識を獲得しようとする際に用いている技法の中心に計量的技法があることは、ブルデュー検討の参照項に計量社会学が持ち出すことの積極的な理由となる。
 さらに言えば。様々な(いわゆる「質的」あるいは「量的」な)技法を縦横無尽に駆使して議論が繰り広げられるところにもブルデュー社会学の魅力はあるだろうが、──複数の技法を首尾一貫した形で用いることは容易いことではないのだから──、「そのようなことが どのようにして成し遂げられているのか」ということは問われてよい。

おそらくこれもやはり、「理論によって支えられている」ように私には思われるのだが。

その点について検討するためにも、「まずは」──標準化されていて形式性が高く、その点で考察のしやすい──計量的な技法の使われ方に着目するのが低コストだろう。


以上、新年会の検討課題を計量的なところに置いた理由を記した。およそ十全な敷衍とはいえない走り書きではあるが、これ以上の議論は、会場でおこなうことにさせていただきたい。