用あって慎改康之さんの論考を固めて再訪。
http://www.meijigakuin.ac.jp/~french/shinkai/02-recherches.html
- 慎改康之(2009)「『生政治の誕生』もしくは市民社会の系譜学」in 『現代思想』第37巻7号、192頁-205頁
- 慎改康之(2008)「フーコーからメルロ=ポンティへ――見えないものの考古学」 in 『思想』1015号、241頁-255頁
- 慎改康之(2005)「フーコーと哲学──『知の考古学』を中心に」in 『フランス哲学・思想研究』第10号、78頁-89頁
- 慎改康之(2001)「ポジティヴィスム批判から幸福なポジティヴィストへ」 in 『フランス語フランス文学研究』第79号、68頁−78頁
- 慎改康之(1997)「フーコーの現象学:『解釈』をめぐって」 in 『現代思想』第25巻第3号、148頁-156頁
どれも勉強になる論文であります。
「ポジティヴィスム批判から幸福なポジティヴィストへ」は、「フーコーは何をポジティヴなものと呼んだのか」という問いには答えているけれど、
「何故それがポジティヴと呼びうるのか」については書いていないように思われる。
「幸福なるポジテイヴイスト」とは「希少性の分析」、「外在的関係の記述」、「累積の分析」を行いつつ言説の「ポジティヴィテ」のタイプの規定をその任務とする者のことである、とされる。それでは一つの言説の「ポジティヴィテ」とは何かと言えば、それは「語られたこと」に対して「歴史的アプリオリと呼ぶことのできるようなものの役割を果たす」もの、すなわち「語られたこと」が実際に語られたという歴史的事実に関してその条件を構成するようなものである。したがって、幸福なるポジティヴィスムとして規定されるのは「語られたこと」の現実的条件を、それ自体歴史的に変容するものとして、明るみに出そうとする態度である、と言えるであろう。実際、フーコーは「考古学」の基本的態度を
「語られたことを、それが語られたそのとおりのかたちで記述すること」として示しつつ、そこで関われるべき問いを以下のように列挙している。[75]それ[語られたこと]はどのような様態のもとに存在しているのか。それが表明されたということ、それが痕跡を残しておそらくはそこにとどまり場合によっては再び使用されるということ、これはどういうことなのか。また、それが出現したということ──しかも、他のいかなる場所でもなくその場所に出現したということ──はいったいどういうことなのか。
あえて言えば、上記引用内の青字の箇所がそうなのだろうが。
しかしこれを「実証主義」と呼んでしまう時には、この言葉はもはや歴史的な言葉ではなくなってしまっている。
という以前にそもそも。ふつうは
- 「経験できる(e.g.「見える」)ようになっているもの」
のことを「ポジティヴ」と呼ぶのであって、
- 「経験できるようになっているもの」を可能にするもの
のことを同じ資格で「ポジティヴ」と呼ぶことはないんである。そしてもちろん、「歴史的ア・プリオリ」は後者に属するものであろう。