『思考集成』もたまには。
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日本での講演。
〈反権力〉としての哲学の役割
反権力の哲学であるためには、哲学は、立法者や予言者、あるいは教育者であろうとする野心を捨てねばならぬ。[127]
この「ねばならぬ」は、どういうタイプのそれであろうか。
〈権力のゲーム〉の分析学
すでに久しい以前から哲学の役割は、隠れていたものを露呈させることではなく、見えるものを見えるようにすることだった。[127-8]
現代における哲学の使命は、我々が組み込まれていおり、哲学事態も少なくとも150年来巻き込まれている権力の関係が どのような状態にあるのかを問うことだ。それはいかにも経験的で限界のある仕事だといわれようが、しかし哲学のこのような用い方に幾つかのモデルがないわけではない。私の考えではそのモデルの一つを、英米系の分析哲学に見ることができる。
英米系の分析哲学では、決して言語の存在自体についての反省とか、言語の深層構造とかを問題にしたりはしない。そのかわり、さまざまなタイプの言説において日常的に言語が用いられていく用いられ方を出発点にして、思考の批判的分析を企てるのである。
それと同じようにして、日常的な闘争において権力の関係の内部で何が起きているのか、問題は何か、その権力関係とそこで賭けられているものが何かを明らかにすることを使命とする哲学を想像することができるはずだ。つまり[この、フーコーが構想する政治の]分析哲学の対象は、言語の作用ではなくて権力の関係であり、社会全体を貫いている闘争なのだ。
それは、〈政治の分析哲学〉あるいは〈分析的政治哲学〉と呼ぶことができよう。… [分析哲学においては]言語の働きを〈ゲーム〉として捉えているので、〈ゲーム〉の概念が重要になってくる。
それ[=分析哲学における言語]と同様に、[分析政治哲学における]権力の関係も、過小評価したり過大評価するのではなく、また、拘束・矯正という力しか無いと考えたり、またある断絶によって人間の手には捉えがたいものだと想像するのでもなく、権力の関係を1つの〈ゲーム〉として考えてみることだ。
つまり、〈権力のゲーム〉として、そこにはどういう戦術や戦略があり、どういう規則や偶然が作用し、また何がそこで賭けられ、目的とされているのかを分析してみることなのだ。[128]