フーコー『思考集成』5

  • 139 /(1974)「真理と裁判形態」
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リオ・デ・ジャネイロ カトリック司教大学での講演。

I

しかし、この言説という事象を、もはや言語学的局面においてだけでなく、ある意味では──ここで私は英米の人々の研究に触発されていうのですが──ゲームとして、作用と反作用の、問いと答えの、支配と逃走ないし闘争の、戦略的なゲームとして考える時期に来ています。言説とは、あるレベルでは言語学的事象の、他のレベルでは論争的かつ戦略的事象の、規則的集合なのです。[96]

討議

私が言ったのは三つの計画があるということです。それは収斂するものですが、同じレベルには位置していない。ひとつには、戦略としての言説の分析のようなものです。アングロ・サクソン系の人たち、特にヴィトゲンシュタインオースチン、ストローソン、サールなどがやっているようなことですね。サールやストローソンなどの分析で、ちょっと狭いと思われるのは、オックスフォードのサロンで、ティーカップをめぐってなされるお喋りの戦略分析は、確かに面白いけれども、どうしても限定されると私には思えてしまうということです。問題は、もっと現実的な歴史的コンテクストの中で、あるいはサロンの会話などとは種類の違った実践の内部で、言説戦略の研究ができないかどうかを知ることです。たとえば、司法慣行の歴史の中で、現実的で重要な歴史的プロセスの内部にも見出すことができる、その仮説を応用して言説の戦略分析を企てることができる、そう思われます。ついでに言えば、ドゥルーズが現在の研究の中で、精神分析治療に関してやっているのがそのようなことです。精神分析治療を、秘密を暴くプロセスとしてではなく、反対に、二人の語る個人の間の戦略的ゲームとして研究すれば、精神分析治療の中に、どんなふうにこの言説の戦略が遂行されるのかを見ることができる。そこで一方は黙っているけれども、その沈黙は戦略的で、少なくとも語りと同様にものをいっているわけです。というわけで、私のお話した三つの計画は両立しないものではないどころか、ひとつの作業仮説を ある歴史的領域におうようすることなのです。[199]

追記 2014.02.25 議論まとめ