イポリット(1955→1970)『マルクスとヘーゲル』/メイヤスーほか(1980)『マルクス主義と経済人類学』

朝カル『近代の観察』講義の準備。http://socio-logic.jp/luhmann_acc/201810_moderne.php
7月はマルクス月間で。とりあえずおうちにあったこれを。

マルクスとヘーゲル (1970年) (叢書・ウニベルシタス)

マルクスとヘーゲル (1970年) (叢書・ウニベルシタス)

マルクス主義と経済人類学

マルクス主義と経済人類学

  • 序に代えて──日本語版読者のために

第一部 ヘーゲルにおける生命と実存

第二部 ヘーゲルにおける歴史

  • 2 疎外と対象化──ヘーゲルの青年時代についてのルカーチの著作にふれて
    • 一 哲学と経済学
    • 二 疎外・外化・対象化
    • 三 素材と歴史の終末

第三部 マルクス主義と哲学

第四部 真理と実存の問題

I

II

  • クロード・メイヤスー(1967)「狩猟社会における決定レヴェル」
  • ジョルジュ・デュプレ/ピエール=フィリップ・レー(1969)「交換の歴史についての理論の妥当性」
  • カトリーヌ・コクリ=ヴィドロヴィチ(1969)「アフリカ的生産様式に向けて」

III

引用:イポリット

2-2 疎外と対象化

90

ヘーゲルの『精神現象学』は、その否定性の概念、つまり自然を人間化し、そのかわりに個別的人間を普遍的なものに高めて、その人間に集団的関係と存在の客観性を理解させる、自然を変形する人間労働の概念でもって、経済学という人間の科学と結びつくことになる。

98

啓蒙の平板な合理主義以後の道徳的観念論――もっばら道徳的な――を清算したことに、イェーナ時代にヘーグルが書いた、当時の哲学にかんする偉大な論文「信仰と知」の意義があるのである。しかしこの批判的論文と経済的なものおよび社会的なものとの連関を理解するためには、自然法にかんするあるいは社会的道徳性の体系(人倫の体系)にかんする同時期の著述をそれに付け加えなければならない。これらの著述は、すでに述べたように、ヘーグルの最初の精神哲学を真の社会学たらしめているのである。

100

そしてヘーゲルにとって対象化と一体をなしているこの疎外、すなわち労働における人間の外化が、(ベルン時代の)既成性という用語とか、(フランクフルト時代の)運命という用語にとって代った新しい用語なのであり、これがヘーグルをして人間の問題をそのまったき拡がりにおいて提起せしめることを可能にするであろう。まことに、この疎外という用語がまた、K・マルクスヘーゲル弁証法をさらにおし進めるのにも役立つことになる。

なるほどね。

3-1 マルクス主義と哲学

129

マルクスの初期の著作、特に経済学についての論文は、社会的人間がいかに歴史のなかで疎外され、まさしく資本となるかを示したのである。しかし『資本論』は逆の方向からその運動をとらえる。この産物、社会的人間のこの疎外態は、ついにそれ自身人間を生産するにいたる。人間はプロレタリアとして彼自身の産物の産物となる。

3-2 ヘーゲルの国家観

138-139

簡単にいえば、ヘーゲルはここ〔国家〕で、われわれすべてがみずからに課す問題、すなわち自由主義社会主義とのあいだの、個人の自由と一般意志の統一とのあいだの和解という問題に対する解決と彼のみなすものを示している。しかしマルクスが十分に論証したように、ヘーゲルは彼が念入りに作りあげ、当時の歴史的諸事件のなかに発見する諸媒介を通して問題を真に解決しているのではない。マルクスはそれをもっとよく解決するだろうか? … すくなくとも、ヘーゲルがある点でマルクス以前にすでにほとんどマルクス的であったこと、ついで彼が人間の疎外のこの完全な廃棄を断念した、ということを忘れるべきではない。それはたんに彼が保守主義者であったとかより保守主義的になったからというだけではなく、彼が目撃した諸事件によっていだくようになった理由から、また彼の学説と結びついた別のより一層深い理由―― … ――から、つまり経済生活の上部構造に還元されえない人間と民族の相互関係についての彼の考えに由来する理由からなのである。

157

マルクスにあってはプロレタリアートは、人間の条件の矛盾をその極限まで担い、かくして実際にそれを解決することができるようになる主体である。しかしこのようなあらゆる超越性の解決は、思想の面におけると同じく歴史の面においても可能であろうか? 人間の条件は、その問題とともに問題の解決そのものを含んでいるのであろうか?

165

この[疎外という]観念から出発し、また人間の解放を、その本質からのあらゆる疎外――それがいかなる形態で現われるにせよ――にたいする歴史における人間の積極的な闘争として規定することによってこそ、マルクスの哲学の総体をもっともよく説明し、マルクスの主要著作である『資本論』の構造をもっともよく理解することができる。この疎外という用語の単数もしくは複数の意味と、これと相関的であるが、人間の解放をどのように理解できるかを、正確に規定するためには、マルクス自身が1844年に『経済学・哲学手稿』において行なっているように、ヘーゲルの『精神現象学』にまで、またフォイエルバッハの疎外の解釈にまでさかのばらなければならない。

たいへんだ。

174-175

ヘーゲルが彼の論理学――あらゆる仮象の普遍的本質の理論――にわれわれを導くために、現象学――仮象の理論――から出発するのに対して、マルクスは『資本論』においてその逆を行なう。マルクス自身が述べているように、マルクスは、抽象的なものから具体的なものへ、深い本質(労働=価値)から仮象へ――この仮象は本質の認識なくしては目をあざむくもの、まやかしにすぎないのであって、ある間違った信頼から仮象だけに執着するブルジョア経済学者は結局それにだまされてしまう――と進みつつ、… 歴史的現象をとらえようとする。

引用:山崎

山崎「序論」

著名なる『経済学批判』(1859)序言

 人間は、自らの生活の社会的生産において、自らの意志から独立した特定的かつ必然的な関係、つまり、自らの物質的生産力のある特定の発展段階に照応した生産関係に入る。この生産関係の総体は社会の経済構造を形成しており、この現実的土台〔基盤〕のうえには、ひとつの法的・政治的上部構造が聳え立ち、この上部構造には特定の社会的意識形態が照応している。物質的生活の生産様式が、社会的・政治的・精神的生活過程全般を限定する(bedingt)。人間の意志が彼の存在を規定するのではなく、反対に、彼の社会的存在がその意識を規定する(bestimmt)のである。

資本論』第一巻脚注

「まずもって驚かされるのは、中世や古典古代世界についてのこうした世間周知のきまり文句をいまだに知らない人間がいると前提している人がいることである。中世がカトリック教によっては、古典古代世界が政治によっては、生活できなかったことだけは明白である。反対に、これらの世界が自らの生活をあがなった仕方(die Art und Weise, wie sie ihr Leben gewannen)こそが、なぜあちらでは政治が、こちらではカトリック教が主役を演じ
たのかを説明してくれる。

参照文献

山崎「序論」