ミシェル・ド・セルトー(1975/1984→1985/2021)『日常的実践のポイエティーク』

本日は参照文献として。

「概論」二「実践者の戦術」

ケイン樹里安論文における参照箇所の一つ目(32頁)。

日常会話のレトリックというのは、「パロールの状況」を転換させる実践であり、言葉をとおした生産であって、そこでは話し手どうしの位置の交差が、だれの所有するでもないオラルの織り目を繊りあげてゆく。だれのものでもないひとつのコミニュケーションが創造されるのである。会話というのは、言語能力の集団的かつ一時的なはたらきであって、「決まり文句」をあやつったり、ふりかかってくるいろいろな事件を「しのげるもの」にかえて楽しんだりする術のひとつなのである。

この箇所についている注30では、サックスとシェグロフの名前が挙がっているが、表記が「シェルゴフ」になってしまっている。

第一部「ごく普通の文化」 第三章「なんとかやっていくこと/使用法と戦術」

もう一つの参照箇所(91頁)。

 したがって、さまざまな操作のシェーマを種別化してみなければならない。文学において「文体」スティルや書きかたを変えるのとおなじように、「もののやりかた」も――歩いたり、読んだり、ものを作ったり、話したり、等々の―― いろいろな差をつけることができるのだ。このような行動のスタイルは、第一次的にそれを規格化する領野(たとえば工場のシステム)でうまれてくるものにはちがいないが、別の規則にしたがい、第一次的なものに付着した第二次的なもの(たとえば隠れ作業)を形成するような、あるうまい手法をそこにもちこんでくるのである。ちょうどものの使用法モード・ダンブロワのように、こうした「もののやりかた」は、使うひとによって効能もさまざまにちがってくるものの働きを活かしながら、そこに遊びゲームを創りだしてゆく。たとえば(家でも言語でも)、故郷のカビリアに独特の「住みかた」、話しかたがあり、パリやルベーに住むマグレブ人は、低家賃住宅の構造やフランス語の構造が押しつけてくるシステムのなかにこれをしのびこませるのである。かれは、二重にかさねあわせたその組み合わせによって、場所や言語ラングを強制してくる秩序をいろいろなふうに使用するひとつのゲーム空間を創りだす。否応なくそこで生きてゆかねばならず、しかも一定の掟を押しつけてくる場から出てゆくのではなく、その場に複数性をしつらえ、創造性をしつらえるのだ。二つのもののあいだで生きる術を駆使して、そこから思いがけない効用をひきだすのである。
 こんなふうにものを利用する――というよりもむしろ再利用する――操作は、異文化受容という現象がひろがってゆくにつれ、すなわち、場所ごとそっくり同一化してしまうのではなく、もののやりかたや「方法」を少しずつ変えてゆく現象がひろがってゆくにつれ、しだいに増えていっている。だからといってそれがずっと昔からある「なんとかやってゆく」術に当たることにはかわりない。こうした利用の操作を、わたしは使用法〔usages〕と言うことにしたい。ふつうならこの語は、ひとつの集団がうけいれ再生産してゆく型の決まった手続き、つまりその「慣用」〔us et coutumes〕 を指す場合が多いのだが。それというのもこの語にはもともと両義性があって、この使用法というのには、(軍事的な意味での)「作戦」アクシヨンの意、特有の型式と創意をそなえつつ、蟻にも似た消費作業をひそかに編成してゆくさまざまな作戦の意がこめられているのである。