self

  • # Britty 『たいとさが初期フィヒテも土器のことをいうのでびくーり。自己意識は自己を自己として意識する意識ではないでしょうか土管一般では。ライプニッツでどうだったかはしらん。』
  • # Britty 『たいとさはふつうのひとが自我というものを自己に含めていて自己の外延もちがうみたいなので、むづかしいです。』

http://d.hatena.ne.jp/contractio/20040416#c

  • 「初期フィヒテも土器のことをいうのでびくーり。」
    • →「自己:オペレーションの連鎖」という規定を「フィヒテもどき」というためには、たくさんの前提が必要なのでは。すぐに思いつく二つの点だけをあげても:
      フィヒテは、「事行の連鎖*1」と「自己同一化の働き」とを「同じ事柄」としてあつかっていたのではないか、というのが一点。もうひとつは、フィヒテにおいて 「事行」は、「能動的な働き」と捉えられていたのではないか、という点。
      この二つのうちのどちらかでも「正しい理解」であったとすれば、上記の規定は「フィヒテもどき」とは言えない ということになると思います。
  • 「自己意識は自己を自己として意識する意識ではないでしょうか土管一般では。」
    • →そうなのかもしれません(私はよく知りません)。
      が、──そうだとしたら──それは 偏見(=予断=先行決定)でしょう。
      あらゆるオペレーションに「〜と私は惟う」が ともなわねばならぬなどといえる*2のは、──オペレーションに即して、ではなくて、──遡行的に=あとから、のことでしょうから。
  • 「ふつうのひとが自我というものを自己に含めていて自己の外延もちがうみたいなので、むづかしいです。」
    • 「ふつう」とか言うな(藁。
      なるほど ここで私が従っているのはルーマンの語法──(上記の意味での)「自己」はシステムであり、「自我」や「人格」はシステムではない*3──ですが それが何か?

*1:「連鎖」という言葉はフィヒテ自身の言葉ではもちろんないけれども。

*2:あるいは、そう「いうしかない」のは。

*3:「自我」は「地平」。「人格」は「被-観察物」。cf.『社会システムたち』[1984→1993]