ドゥルーズ『ベルクソニスム』

夕食後半。おうちにある本を読むよシリーズ。

ベルクソンの哲学 (叢書・ウニベルシタス)

ベルクソンの哲学 (叢書・ウニベルシタス)

1966年刊行。ドゥルーズ41歳。
〈潜在性/実在性〉|〈可能性/現実性〉 という図式は 明快で分かり易くはあるけれど、その身分は たいそう怪しいものであるよな。

これ振り回して議論を裁断されても困るよ(反論不可能だし)。よくいるけど*。
* 最近はあまり見なくなりました**が...
** 「マルチチュード」とか逝ってる人を別とすれば。


『創造的進化』(と『道徳と宗教の二源泉』)について論じた第5章「差異化の運動としてのエラン=ヴィタル(生命・知性・社会)」:

眼の構築は、何よりもまず、光によって提起された問題の解決である15。そしてそのたびごとに、問題の提起のされ方と、生命体がその問題の解決に用いる手段とによって、その解決は可能な限りよいものであったと言えるだろう。(その結果、異なった種類の生物が持つ類似した本能を比較する時には、その本能が多少とも完全であるとか、多少とも完成されているとか言うべきではなく、さまざまな段階で可能な限り完全である と言うべきである。) しかし、生命体による個々の解決が それ自体で成功ではないことは明白である。[前の段落で]動物を節足動物脊椎動物の二つに分けることによって、われわれはエラン=ヴィタルにとってはひとつの失敗である棘皮動物と軟体動物とを考慮しなかったのである。すべては、あたかも生命体もまた、おのれを失うおそれのあるにせの問題を提起したかのように進行する。さらに、もしもあらゆる 解決 が 問題または解決の諸条件 に対する相対的な成功であるとすれば、それはまた、その問題を産み出す運動に対しては相対的な失敗である。運動としての生命は、それが惹起する物質的形態の中に疎外される。生命は、現実化され、差異化されることによって、《それ自体の残りとの接触》を失う。したがって、すべての種は運動の停止である。生命体はそれ自身の上で回転し、おのれを閉じると言えよう。それ以外ではありえない。なぜなら、全体は潜在的なものにすぎず、行為へと移行することによって分化し、たがいに外在的なままであるその現実的な部分を集めることができないからである。全体は決して《与えられる》ものではない。そして、現実的なもののなかでは、世界と生命体との還元不能な複数性が支配している。すべてはそれ自体について《閉じられている》からである。 [p.114]

15 生命のこのような特徴と、問題の提起と解決は、ベルクソンにとって──必要なものの消極的な規定 よりも──重要であると思われる。

それで、その〈問題/問題解決〉図式自体はどっから出てきましたか。

それを持ち出してよいのなら、我々はそこで 機能分析 を開始できるわけですが。(=機能分析の権利は〈問題/問題解決〉図式の使用の権利 に基づいている)


別言すると、上の引用文中で ドゥルーズ=ベルクソン が「と言えるだろう」と言うことができる のはなぜですか? ──という疑問。


ところで 注15 の訳文がヘンだ。あとで原文みる。

ベルクソン『二源泉』

昼食。ついでに下巻も読む。

道徳と宗教の二つの源泉〈2〉 (中公クラシックス)

道徳と宗教の二つの源泉〈2〉 (中公クラシックス)

1932年刊。
デュルケームはすでに17年に死んでいる。
http://d.hatena.ne.jp/contractio/20070420/1177074752
あんまり気にしたことがなかったけど、『二源泉』は『原初形態』(1912)-よりも ずっとあとに・その存在を前提にして- 書かれた著作なのであるな。
とか今さらいってみる。

本日の自動赤田くん

■ 化と似た論理形式

おもしろそうな感じがするんじゃないかな。
ピザやケーキなどは後者の例である。
こちらでもやはり「¬」を中になっている人の頭の様相と呼ぶよ。
... これが一部では「指をさしながら」雨は降ってなければならなかったり。1チームには、じぶんは日常の言語も捨て、曖昧なのかちょっと意地の悪い質問に対する答えとして、皆さんに愛されるホームページを本来選択すべきでは、今後の課題とした立場と現象主義という二極構造によって本編は、ほんとに『社会システム理論』でもいいけど。断言口調でやたらと優遇するものは、なんで遠回りするのは間違いである。この時、ひとつの重苦しい会議で、マウスジェスチャで最前面に持っている。
+ある文字列と小説を読んでなかったので、途中で読むとむしろ雑多なものかな!

自動生成したやつのほうが面白いというのは問題的ではないのか。会議でマウスジェスチャ使えたらいいな。