夕食後半。おうちにある本を読むよシリーズ。
- 作者: ジル・ドゥルーズ,宇波彰
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 1974/01/01
- メディア: 単行本
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1966年刊行。ドゥルーズ41歳。
〈潜在性/実在性〉|〈可能性/現実性〉 という図式は 明快で分かり易くはあるけれど、その身分は たいそう怪しいものであるよな。
** 「マルチチュード」とか逝ってる人を別とすれば。
『創造的進化』(と『道徳と宗教の二源泉』)について論じた第5章「差異化の運動としてのエラン=ヴィタル(生命・知性・社会)」:
眼の構築は、何よりもまず、光によって提起された問題の解決である15。そしてそのたびごとに、問題の提起のされ方と、生命体がその問題の解決に用いる手段とによって、その解決は可能な限りよいものであったと言えるだろう。(その結果、異なった種類の生物が持つ類似した本能を比較する時には、その本能が多少とも完全であるとか、多少とも完成されているとか言うべきではなく、さまざまな段階で可能な限り完全である と言うべきである。) しかし、生命体による個々の解決が それ自体で成功ではないことは明白である。[前の段落で]動物を節足動物と脊椎動物の二つに分けることによって、われわれはエラン=ヴィタルにとってはひとつの失敗である棘皮動物と軟体動物とを考慮しなかったのである。すべては、あたかも生命体もまた、おのれを失うおそれのあるにせの問題を提起したかのように進行する。さらに、もしもあらゆる 解決 が 問題または解決の諸条件 に対する相対的な成功であるとすれば、それはまた、その問題を産み出す運動に対しては相対的な失敗である。運動としての生命は、それが惹起する物質的形態の中に疎外される。生命は、現実化され、差異化されることによって、《それ自体の残りとの接触》を失う。したがって、すべての種は運動の停止である。生命体はそれ自身の上で回転し、おのれを閉じると言えよう。それ以外ではありえない。なぜなら、全体は潜在的なものにすぎず、行為へと移行することによって分化し、たがいに外在的なままであるその現実的な部分を集めることができないからである。全体は決して《与えられる》ものではない。そして、現実的なもののなかでは、世界と生命体との還元不能な複数性が支配している。すべてはそれ自体について《閉じられている》からである。 [p.114]
15 生命のこのような特徴と、問題の提起と解決は、ベルクソンにとって──必要なものの消極的な規定 よりも──重要であると思われる。
それで、その〈問題/問題解決〉図式自体はどっから出てきましたか。
別言すると、上の引用文中で ドゥルーズ=ベルクソン が「と言えるだろう」と言うことができる のはなぜですか? ──という疑問。
ところで 注15 の訳文がヘンだ。あとで原文みる。