ベルクソン『二源泉』/ドゥルーズ『ベルクソニスム』

夕食後半。

道徳と宗教の二つの源泉〈1〉 (中公クラシックス)

道徳と宗教の二つの源泉〈1〉 (中公クラシックス)

解説に愛が溢れ過ぎwww。

 個人と社会を対立させて、社会から個人に向かう制約を「道徳」とみなすという話なら、それは特に珍しくない。[ベルクソンに]近いところでは、ベルクソンと同年代の社会学者であるデュルケムが、個人の集合によって構成されながら個々人を超越する精神的存在として「社会」を考え、そうした社会と個人との関係が、まさしく義務と愛着から織り成された「道徳」という現象なのだと説いていた(「宗教」も基本的に同じ図式から説明される)。しかしベルクソンはその種の発想をむしろ批判している。そうすると彼[ベルクソン]自身の考えでは、この力は、私のエゴイズムに囲い込まれてその中で働く知性の勧告から来るのではないが、かといって単純な「外」(超越)から来るのでもない、ということになる。「私」という主体の輪郭は、ここで容赦なくぼやかされ、曖昧な絡み合いのただ中に位置づけられてしまうのである。[p.14]

合評会での やりとりを聞きながら、この↑箇所を思い出していたよ。

ベルクソンからは〈超越〉の契機がでてこない」という前提で議論をしてしまえる お二人には、ベルクソンは必要ないのでは? つーか二人ともデュルケームやればw? (´_ゝ`) という言葉を飲み込みつつ。
あ。せっかく言わなかったのに書いちゃった。


ぱらぱらする。

ベルクソンの哲学 (叢書・ウニベルシタス)

ベルクソンの哲学 (叢書・ウニベルシタス)