そんな時のフッサール。夜食。
しばらく、なるべく家と図書館にある本だけを読むように心がけたい。
- 出版社/メーカー: せりか書房
- 発売日: 1972
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- フィンク「世界と歴史」
- イポリット「知識学のフィヒテ的観念とフッサールの企図」
- インガルデン「エドムント・フッサールにおける超越論的理念論について」
- ラントグレーベ「現代の自己省察に対するフッサールの現象学の意義」
ほとんどの寄稿者が「フッサールからハイデガーへ」という視線で報告しているあたりに時代を感じます。
■フィンク
「歴史的なるもの」は、ハイデガーにおいては[‥]人間の存在了解であり、これをハイデガーはいまや「時熟」としてより徹底的に解釈する。さらに存在了解には、本質的に、存在了解が 事物の発見として、また 自己自身の人間存在の開示として遂行されるということが属している。存在了解の歴史は「真理」の歴史でもある のである。世界内存在と真理内存在とは、等根源的な実存論的規定である。[‥] ハイデガーが初期にあっては 実存分析的意図の下に「実存範疇」として視野におさめていたもの──了解の明るみ、非隠微性としての真理、「世界性」、時熟といったもの──が、いまや新しい思索の道程の中で、なかんずく、存在そのものの諸規定として認識されるにいたり、そして派生的な仕方において、はじめて人間に属するものとなった。[p.127]
あたりまえのことをむつかしく述べておられます。
■イポリット
哲学的意識は日常的意識について反省するが、その反省は、日常的意識が哲学的意識のなかで自己自身を了解しうる程度においてのみ妥当しうるに過ぎない。[‥] 哲学的意識固有の対象は日常的意識によって体験された直接体験であり、考慮し・了解することが問題なのは、まさにこの経験である。日常的意識はそれ自体、自己についての反省であり、知識の知識である。かくして[フィヒテにおいて、] 哲学的意識 と 日常的意識の直接体験 とは円環を為して知識学の有効性を保証する。だがさらにもう一歩を進める必要がある。[p.143]
もし自我が自己自身を反省するものであるべきならば、そのことはただ自我の出会いのために身を開くことによってのみ可能なのである。出会いと反省とは相互的制約をなしている。[‥] ひとは出会うことによってしか了解しない。また了解するものにしか出会わない。内在性における反省は、超越的な場の不定の開示性によってしか可能ではない。しかしこの場は、たんに自我が自己固有の無限の豊かさを表象するようになるためにのみ開かれているわけではない。それは行為が可能であるために開かれているのだ。[p.144]
あたりまえのことをいっておられます。
■ラントグレーベ
現象学の道は、〈客観主義〉において人間によそよそしいものとして対立しているように思われる世界から、人間を自己自身へと連れ戻し、人間をして世界と自己との分ち難さに気づかせる想起の道である。[‥] 想起の道は、この分ち難さの中で、意のままにならない真であるものが見えるようになり、真であるものをそのようなものとして受け取らせる準備がよび醒される、ということに気づかせるのである。[‥] 我々は、[存在の根拠]を問うためには、[‥]思惟するものと道徳的なものと感性的-身体的なものとが一つになった十分な具体態から出発しなければならないし、人間自身に世界がその直観的充実の豊かさをもって開示される仕方から出発しなければならない。[p.176-177]
「〈あたりまえ〉に学ぶ」というまとめで。