涜書:守永『未知なるものへの生成』

未知なるものへの生成―ベルクソン生命哲学

未知なるものへの生成―ベルクソン生命哲学

べルクソン哲学研究会(ある意味)オールスターズ大集合合評会:



I-1 (22) シュッツはベルクソンの選択行為の理論を分析し、正当にもライプニッツに結び付けている(ISBN:4896160207 156以下参照)。

かれはライプニッツの意思作用の理論から神学的背景を捨象することでその今日的意味を剔出する。精神にもとづく諸知覚は、先行意志を創り出すが、理性はそれに対抗しつつ中間意志を発動させ、これら諸傾向が最終的に自発的なフィアットを形成する。対抗的諸傾向がフィアットを形成するこのプロセスが、動的過程としての内的持続における選択行為には見られないと彼は指摘する(116頁)。

この議論の最大の問題点は先行形成の理論が看過されていることだ。ベルクソンライプニッツの関係はもっと複雑である。

 持続の同時性にまつわるシュッツの議論は、ベルクソン哲学を下敷きにしつつも、それとは決定的な箇所で違っている。彼にとり生きた現在とは 物理的で計測可能な外的時間と、意識の内的時間 との 身体における交叉 である。

波長を合わせつつ生きた現在に参与する私とあなたは、ともに時を経つつ「我々体験」を共有する。物理的時間と内的時間が交叉し、それが他者と共有される。これに比べベルクソンの同時性理論はもっと複雑な構造をしていた。

時間をイマージュを伴う持続流とみなすとき、まず事象を形成する潜在的な流れが、次に科学が切り取る流れがあり、最後に私たちの内的持続がある。

私たちは注意力を用い、これら三つの流れを分節化しつつ多元的現実を構成するが、まずたんにこれらを混同するにすぎぬ同時性が、つぎに内界と外界を区別する同時性があり、最後に三つの流れを分離することなく多元的に統合する同時性があった。この最後の同時性を支配することが注意力(ないし直感)の最も重要な役割だ。

シュッツ他者論は、この第三の同時性を視野に入れておらず、たんに生きた現在を他者と共有することで満足する。
 [‥] その[ベルクソンが目指した純粋持続の]手前で立ち止まるために、みずからの他者論の理論的一貫性を確保するうえで必要不可欠なはずの同時性理論がシュッツの著作ではどれも同工異曲で類型化されたものになり、独自の理論的堀下げを果たすには至らない。逆に言えば、そんな超越論的問題を括弧入れしたことで、類型性の分析の際は鋭利きわまりない理論的構築が行われ、そこで彼はフッサールに大きく依拠することになった。[p.119]

勉強になる。


いやがうえにも「やれやれ」感を醸し出さずにはいないキメ文句を 各章の終わりに妥協なくいちいち置いておく漢意気が素敵です。
こんな感じ♪

...何ものにも囚われぬ魂の自由なエランであること、すばやくその位置を変え、予見不可能な運動とともに物象の桎梏を潜り抜けるクリナメンであること、表象が到来するより早く次のイマージュに飛び移る、つねに若々しい描線であること。速くあれ。正確であれ。自由であれ。多数多様な事象の旋律のなかで結ばれては解けてゆく微粒子の渦動であれ。... [p.50]

...存在を祖国とすることなく生成の運動とともに祖国から出奔せよ。生成の思考は祖国を持たない。生成こそが思考のふるさとだ。思考は事象の蒼ざめた戯画であってはならず、場所から離陸し、時間において流動する生成の音楽へ、全自然的な交響へと化さねばならない。[p.126]

...同じものに留まる生を肯定しつつ、新しいものを通してやるために差異に栄光をあたえること。未聞の旋律で新しい歌を歌いだすこと。建設不可能な都市を構想すること。誰一人夢見たことがないような新しい社会を、新しいせいを創造すること。何度となく試行錯誤を繰り返し、幾度となく葛藤と軋轢を乗り越えながら、目眩く抱擁から身を引き剥がし、劫火に輝く燎原を横切りながら、にもかかわらず軽やかに、ひまわりのように笑いながら踊りながら、つま先で旋回しながら、無限に多様なことを無限に多様なやりかたで。[p.250]

漢字多いよ。

...鳴りやまぬもの、動きやまぬもの、反復を拒むものの栄光をたたえねばならない。物質と生命のはざまで沸き立ち、沸騰し、均質的なものをかき乱し、天空に向かい消えてゆくあの生命の合唱に加わるとき、その多様な歌声に自らをゆだねる時私たちは初めて自分に固有なリズムとメロディを発見し、この合唱に新しい響きと声をつけ加えるだろう。それは生命の歓喜の歌だ。終わりなき世界の終わりなき歌だ。... [p.372]

このセリフで本が終わったよ〜ヽ(´▽`)ノわーい