ヴァイトクス『「間主観性」の社会学』

なにも読む気が起きない時の現象学


グラートホフ@ビーレフェルト の弟子。ホネットと共同研究していたこともある。

「間主観性」の社会学―ミード・グルヴィッチ・シュッツの現象学

「間主観性」の社会学―ミード・グルヴィッチ・シュッツの現象学

原著:
Steven Vaitkus (1991)
How is Society Possible?: Intersubjectivity and the Fiduciary Attitude as Problems of the Social Group in Mead, Gurwitsch, and Schutz (Phaenomenologica)
これはひどい

邦訳が出たときに、本屋で序論のここを読んで、先を読むのを止めた、──というのを思い出した。

 ここで、いくつかの簡単な用語上の混乱を避けるためにまず述べておかなければならないのは、この 信用態度fiduciary attitude という考え方は、主観的現象と人間行為についての現象学的な分析の文脈から内在的に展開されたものであり、それゆえ、ニクラス・ルーマンが彼のシステム理論において展開した信頼(Vertrauen)という概念とはまったく何の関係もないということである。ここで重要なことは、ラッセルやカルナップによる間主観性の問題を論理化しようとする難解で洗練された試みが、さらにニヒリスティックに、そしてより意識されずに、ルーマンによって社会理論あるいは社会的現実の準位でまさに遂行されているということである。ルーマンがこれを行っているのは、彼が、自分のシステム理論に欠陥を見いだして、皮肉にも諸概念のもつ主観的な指示と内容を排除することによって、理論のなかに異質で矛盾したこれらの諸概念を融合させるときである。しかし、読者が議論のこの微妙な点に注意を払うのであれば、リヒャルト・グラットホフの近年の研究のひとつの帰結が、次のことであるのは明らかとなる。つまりそれは、

  • 間主観性が、人間の信頼と 以下で論じるような 信用態度を措定する信頼の構成とを含む場合には、
    ルーマンの「困惑状態の定式化」("Verlegenheitsformel")が、システム理論それ自体にとっての重大な困難となるということである11
11 Richard Grathoff, "Über die Einfalt der Systeme in der Vielfalt der Lebenswelt", Archiv für Rechts- und Sozialphilosophie, 73 (1987), S.251-263

今回読んでみて、また虫酸の走る思いがいたしました♪


ちなみにルーマンの「生活世界」論文*の出版は1986年。グラトホフの論文は見ていませんが、ルーマンへの言及があるのでしょうか。

* 邦訳は『社会学理論の“可能性”を読む』に所収。


今回は我慢して いちおう最後まで読んだ。
頻出する「準位」なる語は「level」の訳であるようです。

  • 序論
  • 第一部 ミードの間主観性理論
  • 第二部 グルヴィッチの間主観性理論
  • 第三部 シュッツの間主観性理論
    • 第五章 間主観性の問題への根本的準位
    • 第六章 間主観性の統合理論にむけて:人格と社会集団
    • 第七章 シュッツの間主観性理論への批判的検討
  • 第四部 間主観性と社会集団
    • 第八章 間主観性問題のさらなる分析のための一般プログラム
      • 1 現象学的還元:超越論的問題あるいは内世界的問題としての間主観性
      • 2 「内在的超越」としての他者、あるいは「超越的内在」としての他者、そして責任ある社会的行為者としての 他者
      • 3 自我論的問題あるいは集団的問題としての間主観性
      • 4 構成的所産としての、あるいは自明視され達成されるものとしての間主観性
      • 結論
    • 第九章 間主観性問題と社会集団の考察
      • 1 社会集団と信用態度
      • 2 日常的な生活世界
      • 3 実践環境
      • 4 所属集団
      • 5 制度
      • 6 シンボル的宇宙
      • 結論:人格と社会集団

ルーマンとは違う」もなにも。「信頼」についてろくなことはなにも書いてありませんでしたが....。
とりあえず、シュッツが「実践的」ということばをすごく狭いいみで用いている*ということまでは分かったのでよしとしましょう。

* だからこそこの人たちは、いまだに「存在論」とか「認識論」とかいったラベルを用いることができているわけですな。納得。