気がめいる。
- 作者: キルケゴール
- 出版社/メーカー: 白水社
- 発売日: 1995/11
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- 作者: キルケゴール,浅井真男,志波一富
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 2005/05/01
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- 英訳:Either/Or http://books.google.co.jp/books?id=GJHlYmo7kXEC
あれか=これか
──忘我の演説──
結婚するがいい、そうすれば君は後悔するだろう。結婚しないがいい、そうすれば君はやはり後悔するだろう。結婚するか結婚しないか、いずれにしても君は後悔するだろう。君は結婚するかそれとも結婚しないかのどちらかだが、いずれにしても君は後悔するのだ。世間の愚行を見て笑うがいい、そうすれば君は後悔するだろう。世間の愚行を見て泣くがいい、そうすれば君はやはり後悔するだろう。世間の思行を見て笑うか泣くか、いずれにしても君は後悔するだろう。君は世間の愚行を見て笑うかそれとも泣くかのどちらかだが、いずれにしても君は後悔するのだ。一人の娘を信頼するがいい、そうすれば君は後悔するだろう。一人の娘を信頼しないがいい、そうすれば君はやはり後悔するだろう。一人の娘を信頼するか信頼しないか、いずれにしても君は後悔するだろう。君は一人の娘を信頼するか信頼しないかのどちらかだが、いずれにしても君は後悔するだろう。首をくくるがいい、そうすれば君は後悔するだろう。首をくくらないがいい、そうすれば君はやはり後悔するだろう。首をくくるにしても首をくくらないにしても、いずれにしても君は後悔するだろう。君は首をくくるか首をくくらないかのどちらかだが、いずれにしても君は後悔するだろう。諸君、これこそはあらゆる人生知の真髄である。ぼくはスピノザの言うように個々の瞬間にいっさいを永遠ノ形式で考察するばかりではなく、ぼくはたえず永遠ノ形式であるのだ。多くの人々は、一方のことか他方のことかをしてしまってから対立を統一したり媒介したりするときに、自分たちもやはり永遠ノ形式であるのだと信じる。ところが、それは誤解だ。なぜなら、真の永遠はあれか=これかのあとにあるのではなく、そのまえにあるからである。したがってそういう人たちは二重の後悔をなめなければならないだろうから、彼らの永遠はやはり一種の苦しい時間的経過にすぎないであろう。だからぼくの知恵はたやすく理解される。なぜなら、ぼくは単に唯一の原則を──そこからぼくが出発すらしない原則を持つだけである。あれか=これかのあとからやってくる弁証法と、いまぼくの暗示した永遠の弁訴訟とを区別しなくてはならない。つまりぼくがここで、ぼくは自分の原則から出発しないと言えば、このことはその対立を一つの《そこから出発する》ということのなかに持つのではなく、ひたすらぼくの原則を言い現わす消極的表現なのである。すなわち原則が、一つの《そこから出発する》かあるいは一つの《そこから出発しない》かということへの対立において、自己みずからを把掻するためのものなのである。ぼくは自分の原則から出発しない。なぜなら、ぼくがそこから出発したとしたらぼくは後悔するだろうし、そこから出発しないとしたらやはり後悔するだろうからである。それゆえわが尊敬すべき聴衆諸君のなかのどなたかが、ぼくの言ったことになにか意味でもあるかのように思われたとしたら、その人はそう思うことによってただ、自分の頭が哲学に向かないということを立証するにすぎないのである。どなたかがぼくの言ったことに運動があると思われたとしたら、それも同じことを立証するのである。それに反して、ぼくがなんの運動もしないのにぼくについてくることのできる聴衆諸君のために、いまぼくは永遠の真理を展開しよう。その真理によってこの哲学は自己みずからのうちにとどまり、より高い哲学を承認しないのである。すなわち、ぼくが自分の原則から出発するとすれば、ぼくはふたたびやめることができなくなるであろう。なぜなら、ぼくがやめないとすればぼくは後悔するだろうし、ぼくがやめるとすればぼくはやはり後悔するだろう、というようなことがつづく。ところが、ぼくは決して始めないから、ぼくはいつでもやめることができる。なぜなら、ぼくの永遠の出発はぼくの永遠の中止だからだ。経験の教えるところによれば、哲学にとって始めるということは決してたいしてむずかしいことではない。それどころか、哲学は実に無から始めるし、こうしていつでも始めることができる。これに反して、哲学と哲学者にとってむずかしいのはやめるということである。ぼくはこの困難からもまぬがれている。なぜなら、だれか、ぼくがいまやめることによって実際にやめるのだと信じるとすれば、その人は自分が思弁的な天賦を少しも持たないことを立証する訳である。というのは、ぼくはいまやめるのではなくて、ぼくが始めた当時すでにやめていたからである。だからぼくの哲学は、短くて反駁しがたいという卓抜な特性を持っている。なぜなら、もしだれかぼくを反駁したとすれば、ぼくはおそらくその人を気ちがいだと宣告する正当の理由を持つことになろう。つまり哲学者というものはつねに永遠ノ形式であるのであって、故ジンテニス氏のように単に永遠に生きられた数時間を持つのではないのである。