翻訳論文集に勝手に おかしなタイトルを付ける者に災いがありますように。

@knife0125 氏の修士論文と併せて、〈社会化/教育〉区別などを中心に確認読み。

この区別は なにしろ『社会システムたち』にも出てくるくらいなので、ルーマンの中ではマイナートピックとはいえない。目次と索引を見るだけで明らかなように、これは──パーソンズに倣って──「相互浸透」の重要なサブトピックとして取り上げられている。
社会の教育システム

社会の教育システム

ポストヒューマンの人間論―後期ルーマン論集

ポストヒューマンの人間論―後期ルーマン論集

社会システム理論〈上〉

社会システム理論〈上〉

教育人間論のルーマン―人間は“教育”できるのか

教育人間論のルーマン―人間は“教育”できるのか

  • 第1章 田中智志「教育は社会化を制御できるのか」

『社会の教育システム』「2章 社会化と教育」

訳者による節見出しトピック
I 社会化における〈作動の閉鎖性〉と〈構造連結〉社会化と教育の違い。相互浸透における〈人格シンボル|社会化〉ペア。
II〈教育する意図〉による教育の定義システム統一性のシンボル。
III〈教育する意図〉による伝達行為〈伝達可能/伝達不能〉コード
IV〈家父による教育〉から〈教師による授業〉へシステム分化1
V教育と選別システム分化2
VI〈パラドクシカルなコミュニケーション〉二次コード化:〈より良い/より劣る〉
VII〈平凡でないマシーン〉の平凡化?社会化再訪:教育による・における社会化。(ex.隠れたカリキュラム)
VIII〈演技されたコンセンサス〉教育の機能
ルーマンによるパーソンズ理論の三行要約:

パーソンズは、社会化を相互浸透の一ケースとみなし、相互浸透を 一般的な行為システムが分化する結果として生ずるものとみなす。

  • 文化社会システム制度化 という形式によって相互浸透する。
  • 社会システム人格は、社会化という形式によって相互浸透する。
  • 人格と(行動能力のある)身体は、学習という形式によって相互浸透する。[p.58-59]
ルーマンによる「相互浸透」概念の変更:

〈人格シンボル/社会化〉ペアの導入。

  • 社会システムの側では、[...] 「人格」というシンボルが構成され、身体的・心的な作動をいちいちとらえるまでもなくシンボルによって代理させればすむようになっている。
    • そのさい、人格の 環境においてそれに対応する[心的]システムが 固有の複雑性レヴェルを保ちながら作動することは、むろん前提とされている。
  • 逆に、心的システムの側における内部的写像〈社会化の成果〉というものであろう。
    • これは心的システム独自の成果であって、それによって心的システムは、社会的関連の中で生きて行かなければならないという事情を顧慮するのである。そこから、やがて、内的な一貫性の問題をどう受け止めるかによって、〈(しばしば考え無しの)追随〉と〈逸脱〉との混淆に終わってしまうこともある。

二つの側のそれぞれで行われる不透明な複雑性への内部的対応の全体に名前をつけ、両者が互いの順調な解決に依存し合っていることを表現するために、相互浸透というパーソンズの概念を維持することは、可能である7。[...] もっとも、社会化という概念を解明するには、すでに紹介した〈作動の閉鎖性〉および〈構造連結〉という両概念をもって足りる。[p.59-60]

ここでルーマンは、パーソンズの議論では、システムの作動が顧慮されていない、と文句を言っているのである。
注7は、『社会システムたち』への参照。


ルーマンはここでほとんど、「ひととひとが一緒にいるということによって個々人の側に生じることを、社会化と言います」くらいのことしか言ってない。それを わざわざ 言うことに意味があるのは、「それ以上の事情が何かないと、教育なんて生じない」と言えるから、であろう。
そしてそれだけのことである。
これは、これを前提として何か他の議論のために洞察を引き出せるような、そのような議論ではないのではないか。

『社会学的啓蒙6』「「人格」という形式」(1991)

I ■関連する主題領域
II ■〈心的システム/人格〉区別の導入 - 心的システムの形式について
  • 心的システム: 〈自己参照/外部参照〉
    • cf. 精神分析的区別〈無意識的/意識的〉について [p.124] 
III ■人格の形式について
  • 古い用語法の確認: 
IV ■心的システムにとって人格は何をいみするか。
  • 心的システムの自己観察のために、人格は必須ではない。
    • ex.自分の体を眺めること・感じることでも代替することができる。(スポーツと苦行の例)
  • 社会システムにとって人格は「関与者の行動レパートリーの制限」という意味をもつ。では、心的システムにとっては?
  • 心的システムにとって 人格は何をいみするか。:
 面倒を承知の上でしか得られないこの概念装置をわれわれが必要とするのは、人格は心的システムと社会システムの構造連結に役立つと言いたいからである。人格は心的システムに、社会的交流においてどのような制限に服することになるか自分で経験することを可能にする26。[p.134]
26 ここでわれわれは、とっくに耕された土地に戻ってきたわけだ。それは良心の理論に近いところ、社会的強制の内面化という観念のすぐ傍である。システム理論による複雑な理論的準備の提供は、とっくに知られていることの、接続可能性の文脈と射程を変えるだけのことである。
  • 結論:
     「人格」は、心的システムに 更なる区別──〈制限された行動レパートリー/排除された行動レパートリー〉──を重ねる。それによって、その区別の両側を見た上で、人格に忠実に一方の側[=区別の前項]にとどまることも、[後項への]境界の横断を味わうことも、心的に可能となる。
意識があえて境界横断に踏み切ろうとしないときは、麻薬の助けを借りてそうすることもできる。自分ではない者になってみたい、長い休暇を取ってみたい、お忍びで旅行してみたい、誰も本当かどうか確かめられない話をバーで語ってみたい。けれども、そんな自己逃避からゾッとして遠ざかることもできる。人格は両方を可能にする。人格であるとは ひとつの形式なのだから。[p.135]

この論文は、「社会化/教育」というテーマには ほとんど関係なかったな。残念。

ところで この文献では、「相互浸透と刺激」は「構造カップリング」を支える二つの「仕組み」だと言われているね。


なお、注の26に参照文献をつけないルーマンに災いがありますように。

『社会学的啓蒙6』「間主観性かコミュニケーションか」 (1986)

関係ないついでにこれも再読。

I ■近代における「subject」概念の極端な強調と、その結果生じた困惑の定式化としての「間主観性」概念。
  • 間主観性」は、意識の主観性から生まれる理論に、その理論では考えられない何かを加えるのに役立つ。 [p.168]
    • もしも、「あらゆる主体はそれぞれ独自の間主観性をもつ」といってよいなら、この定式はパーソンズの「ダブルコンティンジェンシー」の構想に接近する。[p.168]
II
  • 間主観性」概念の難点は、この概念の統一性を示せないところにある。II と III でその例をいくつかみる。
■「間主観性」にもとづく議論の倫理学的バリエーション
  • ハバーマスの場合
  • アーペルの場合
III ■「間主観性」にもとづく議論の社会現象学的バリエーション:「生活世界」
  • ギュルビッチ&シュッツの場合
    • ex. ブルーメンベルク、クノール=セティナ、グラートホフ
  • 「生活世界」は、概念が指定する事実関係のなかに その概念が排除する諸概念を含めるような概念 [p.178] である。
IV「間inter」という関係論的アプローチに対する、システム理論による代替案の提案
  • 参照システムの指定を明示することから出発すると、「間inter」と称しうるものはすべてシステムの境界の外部にあるものとして観察されるのであり、したがって、システムごとに異なる「間」だということになる。[p.178-179]
  • 「社会的なもの」の統一性に関する問いは、「その統一性はどんな作動によって生み出され再生産されていくか」という問いへと変換される。[p.179]
    • →答え: コミュニケーション 〜 〈情報|伝達|理解〉[p.180]
(以下コミュニケーション概念に関する解説で節を終わる。)
V ■補論:〈システムの作動/システムの観察〉区別について
  • 自己言及システムのパラドクスに関するどうでもいい話をまるごと一節分。
VI ■上記提案の帰結に関する見通しと研究計画の素描: 「聖なるもの」を例に。

ほんとに何の関係もなかった。