ダブル・コンティンジェンシー再訪(未遂2


「「Person」という形式」in『社会学的啓蒙6』(1995)
初出: Die Form "Person", in: Soziale Welt 42 (1991), S. 166 175.

Soziologische Aufklaerung 6. Die Soziologie und der Mensch

Soziologische Aufklaerung 6. Die Soziologie und der Mensch

Soziologische Aufklaerung 6: Die Soziologie und der Mensch (German Edition)

Soziologische Aufklaerung 6: Die Soziologie und der Mensch (German Edition)

isbn:3531327275
ファイル名にスペース入れんな。>担当者
ポストヒューマンの人間論―後期ルーマン論集

ポストヒューマンの人間論―後期ルーマン論集

馬鹿げた邦題つけんな。>編集者


III節。ダブル・コンティンジェンシーの副産物としての「Person」(=行動可能性の制限)、という話。上掲前田訳から:

 形式概念の精確さに要求されていることは、

  • [1] 区別のもう一方の側に属しているが、しかしコミュニケーションの契機や通常の進行においては念頭に置かれていないものと、
  • [2] 区別それ自身によって排除されているものとを、

慎重に区別しなければならないという点に示されている。この区別の基準を、我々は個人への帰属において見る。

  • [1] もう一方の側における非人格と見なすことができるのは、人格それ自身は表示しないが、人格に帰属させられるかもしれず、場合によっては人格ににじみ出るかもしれないものだけである。
    例えば、評判の良い隣人の市民生活において長い間隠されている飛び地〔の様な性格〕や、もし目立つようになれば人格に加えざるを得ないてんかん発作の傾向等である。
  • [2] その他のものは全て世界における状態か出来事であり、人格図式の一方と他方のどちら側にとっても考慮されないものである。それは区別それ自身によって排除された第三のものである。

別の言い方をすれば、一般に人格/ 非人格の形式図式において観察し、それ以外の仕方では観察しないという誘因〔Anlaß〕もまたつねに存在しなければならない14。それでは、この誘因があるとすればそれは何だろうか。

 我々はこの問いでもって社会システムへの橋渡しをする。というのはその答えとは、社会システムの成立を自己触媒する問題としての、社会的状況の二重の偶発性だからである15

  • 二重の偶発性を伴う状況においては、あらゆる参加者は、他者が自らに対して満足させる様に行為するということに依存して、他者に対して自らの行動をする。
  • その様な二重の偶発性を伴う状況においては、〔行動の〕諸可能性の自由な余地を制限するというやむを得ない欲求が生じる。
  • 人格[という「振る舞いの可能性の制限」]の成立を誘発するのは、二重の偶発性のこの様な不安定で循環的な苦境である。
  • あるいは、もっと精確に言えば、その様な二重の偶発性が、
    • つねに人格において心理的に進行する関与者〔すなわち心理システム〕を、社会システムにおいてすなわちコミュニケーションにおいて人格として振る舞わせ、
    • また、関与者の行動がもつ予期せぬ性質を適切に慎重に量るようにさせる。
      たとえ、狭すぎる境界にぶつからない様に初めから広く見積もろうとそうであるし、他の可能性が役割に属さないものとして拒否されたり無視されたりできる様に分節化しようとそうである16
      また、以下の様に社会的諸形式を扱おうとである。すなわち、人格自身が〔人格を形成する規律的な〕社会的諸形式から自らを取り戻し、その人格によって社会的諸形式の良い教育〔という側面〕のみが有利に示されているということが認識可能になる様にである。(この社会的諸形式には、〔そのことを認識していることを気づかせない様な〕ユーモアも含まれる。)
16 このことは、人格と役割を区別すること、そして、確かに人格はそうではないけれども、役割を個体化することを複合的な社会で意味のあることにしている。

 したがって、社会的状況の二重の偶発性という問題が一般に社会システムの形成に通じることになるのならば、諸人格はこの問題を解決する必要性の副次的効果として圧縮される。

それ故に、
  • 予期の規律があり、
  • 行動レパートリーの制限があり、
  • ひとがそうでありまたあり続けていると見せかけてきた〔人格への〕必要性がある。
そしてそれ故にまた、
  • 心理システムが自由に利用できる〔人格と非人格からなる〕より広い諸可能性の枠内で、ひとがそちら側へ横断できるであろう〔非人格という〕もう一方の側が、共に念頭に置かれている。
したがって、形式自身は〔心理システムの〕心理的欲求に役立つのではなく、──もう一方の言及とともに──全ての社会システムの諸問題を解決するのである。

 それとともに、社会歴史的分析もまた開示されることになる。というのは、人格性が二重の偶発性の問題の解決に援用される範囲、とりわけありうる個人化の範囲は、全体社会システム〔Gesellschaftssystem〕の複合性によって異なるからである。

それどころか多くの目的にとっては認識でき、場合によっては再認できる他者の肉体があれば十分で、それを知覚することによって何を予想しなければならないのか見積もることが可能になる。多くの社会は実際、肉体の装飾によって何が期待されうるかを伝え、それ以上の人格の形式を必要としていない。巡礼者が問題である場合、彼らは服装や身振りで見分けられ、彼らに何をする義務があるのかが知られる。それから中世盛期に初めて、贖罪の気持ちがある本物の巡礼者が問題なのか、あるいは巡礼路の奉仕業務だけを無料で利用しようとする旅行者のみが問題なのかということも切迫した問題となる17。 いくつかの目的のためにはつねに個体化された肉体だけで十分であるが、それ以外の目的のためにはそうではない。また、肉体的な見かけを当てにすることができるかどうか、また、どの様な観点で当てにすることができるか、また、人格性を構成するためには態度をどのくらい示したり確認したりしなければならないかは、状況に応じて様々に異なっているだろう。

 人格がコミュニケーションにおいて不安定に存在するあり方は、遅くとも十七、八世紀以来、道徳の問題にもなる。

  • それ以前は、個人の肉体的なまた心理的なレパートリーの道徳的規律化という意味で、エートスや態度のみが要求されていたとすれば、
  • 今ではコミュニケーション・パートナーの人格の保護へと道徳的要求は移っている。
ますます個人的行動は解放され、それだけますます、ひとが他者の自己提示を社会的粉飾として見抜いていることを気づかせないことが重要になっている。礼節は重大な規制となり、ユーモア(特に自らに適用された)を発展させ安全弁として認める。したがって、会話の高度な規範とは他人に人格として気に入る機会を与えることであり、ひとが期待する様に、そのことはこの人格にそれに応じた代償で報いることになるだろう。また、肉体的のみならず精神的態度もまさに重要だからこそ、探りを入れる可能性は厳しく制限されており、実際に予想されうる様に、恋愛に関する事柄においてすらそうなのである。もっとも、その結果「自然らしさ」を巡って大変な努力が生じるということと、「本当らしさ」が目の前に突きつけられなければならないということは、〔見かけと実際の間に〕不一致が生じているということを表している18。 心理システムと人格を主体概念にひっくるめているので、両者を区別しない倫理はその様な繊細さを、無視するか、倫理的には不誠実なこととして軽視しなければならない。このことについて知りたい者は、ゴフマンを読むべきだろう19

19 特に、差し当たりは古典的な文献である、Erving Goffman, The Presentation of Self in Everyday Life, 2. Aufl., Garden City, N.Y., 1959〔邦訳E. ゴッフマン『行為と演技―日常生活における自己呈示 (ゴッフマンの社会学 1)』、石黒毅訳、誠信書房、1974 年〕


IV節。こっちはかなりどうでもいい話:

 人格という形式は、社会システムの自己組織化を除くと参加者の行動レパートリーを制限することによって二重の偶発性の問題を解決することに役立つ。しかしそれは、人格という形式がコミュニケーションにおける虚構としてのみ機能し、心理的には意義を持たないということではない。[...] ここでの不可欠な関連は構造的カップリングによって媒介され、それは別々に作動しているシステムのオートポイエーシス的な自律性と全く両立する25

したがって、あらゆるコミュニケーションは、〔意識システムに〕介入することはできないけれども、〔コミュニケーションに〕参加している意識システムの注意と記憶の能力を当てにしている。「興奮」とは、オートポイエーシス的システムが自らのスクリーン上で、撹乱、両義性、驚き、逸脱、不整合を、システムが働き続けることができる様な形式において知覚することと理解されるべきである。(ピアジェがこれらの代わりに同化と調節について語ったのは有名である。) 相互浸透の包括化(一般化)はシステムの興奮性によって補われ、さもなければ非常に速く増大する同調からの逸脱〔Aus-dem-Gleichschritt-Kommen〕から保護される。それ故、全体的効果の中でオートポイエーシス的システムは、つねにすでに環境に適応して作動する。なぜなら、オートポイエーシス的システムは、相互浸透と興奮性によるこの二重の装置を通して、実在的な諸可能性の区域の中で維持されるからである。またこのことは、たとえシステムの自己変動のオートポイエーシス的自律性と構造決定性が、相互浸透と興奮性によって妨害されるということがなくても生じる。それは結局システム自らの作動に基づいて生じるのである。

 この様に回りくどい形でのみ獲得されることができる概念装置を必要とするのは、それで次の様に言うことができるようにするためである。すなわち、人格は心理システムと社会システムの構造的カップリングに役立つ、と。

こんな回りくどい話をして言えることが たったそれだけなのか君は。