お客さま:オートポイエーシスと「ふりかえり」

「自己組織化」は構造の形成や遷移についての議論、「オートポイエーシス」は要素の生産についての議論。です。


それで思い出した。この記事ですが:

開発の現場にてプロジェクトファシリテーションのワークショップ@ITmedia

「ふりかえり」はチームが自己カイゼンするための仕組みを、プロセスの中自身に埋め込んでしまう、という発想です(*1)。みんながなんとなく思っている問題点なんかを、「書いて*さらして*しまう」ことで、「あ、なんだ、みんなそう思っていたのか」という発見の共有があり、その発見を、じゃあ、どうやったら「自分たちの力で」少しでもよく出来るか、と考えます。

(*1) 難しくいうと、人間のメタ認知能力を活用し、オートポイエーシス的システムとして開発プロセスをデザインしていることになります。でも、実際に日本の生産革新の現場ではごくごく自然に行われてきたことなんですね。
http://blogs.itmedia.co.jp/hiranabe/2006/08/post_b98d.html
  • 「チームのやりとり」について-「チームのやりとり」において-振り返る──。

こういう やりとり は「定式化」とか「反省」──あるいはまた「再記述」──とか呼ばれるものですが、こうした「メタ*なやりとり」を それだけ取り出して「オートポイエーシス」と呼ぶことはできないでしょう。

この言葉の使い方だと、

    • やりとりの 或る部分(だけ) ある形式をもつやりとり(だけ) がオートポイエティック である

ということになってしまいます。

この場合、この術語は、(要素の)連接の特定の形式 や その特定の一部分の特性 に照準したもの として使われていることになる。


そうではなくて、「オートポイエーシス」という言葉は、要素の連接的産出の水準そのもの──したがって、特定の特殊な やりとり に、ではなく、やりとり そのもの──へと照準するために使われるべきです。

もちろん「定式化」とか「反省」とかも、それ自体「やりとり」(という社会的実践)です。
つまり それはオートポイエティックに生じます。
しかし、すべての「やりとり」が定式化や反省であるわけではありません。
* そもそも、「メタ」なものを「オートポイエティック」とは呼べないわけなのでして。
言い換えると、「メタなもの」に対してこの言葉を使いたいなら「メタなものにおける-メタじゃないもの」を指示するのに使うのがよいわけです。


ちなみに、ニクラス・ルーマンは、上記の議論を整理=区別するために、次のような術語を用意しています:

  • 基底的自己参照: 「やりとり」のこと。
    ここでの「自己」は、やりとりにおける 指し手(move) のこと。
    この、 やりとりにおける 指し手 の産出 が──社会なもの の水準における──オートポイエーシスと呼ばれるもの。またルーマンが「社会システム」と呼ぶのも これのこと。
  • 過程的自己参照: 「やりとりについてのやりとり」(=再帰性のこと。
    ここでの「自己」は、複数の「やりとり」からなるプロセスのこと。
  • 反省的自己参照: 「やりとりの総体についてのやりとり」(=反省)のこと。
    ここでの「自己」は、総体としてのやりとり。

詳しくは『社会的システムたちisbn:4769908083』11章を参照のこと。

また、「定式化」については、ルーマンがそこで参照している、ハロルド・ガーフィンケル&ハーヴェイ・サックスの議論を参照のこと。


【追記】
上の記述では、基底的自己参照(=オートポイエーシス と 過程的-/反省的-自己参照 の決定的な違いがわかりにくいかもしれないので、追記をば。

  • 基底的自己参照(=オートポイエーシスは:
    「やりとりにおける或る指し手」-と-「やりとりの脈絡」とが、相互に参照しあっている
    「指し手」は或る脈絡のもとで指し手となる←→指し手は、それ自体、脈絡を形作るのに貢献している*
    ことに照準した言葉です。ここで「指し手」-と-「脈絡」は、同時的です。
  • ところが、過程的-/反省的-自己参照は:
    「すでにおこなわれたやりとり」について-時間を隔てて後から-参照しているわけで、「参照されるやりとり」と「それを参照する指し手」は同時的ではありません。

この点が まったく異なるわけなので、これらは区別されなければならない、というわけです。──というくらいのまとめでとりあえず。

* エスノメソドロジーの文献では、おなじことが、「相互反映性(reflexivity)」と呼ばれています。