下巻がない。
- 作者: ニクラスルーマン,Niklas Luhmann,馬場靖雄,江口厚仁,上村隆広
- 出版社/メーカー: 法政大学出版局
- 発売日: 2003/12
- メディア: 単行本
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法の「濫用」
[p.222-3]
システムaにおける条件プログラムとシステムbにおける目的プログラム →構造的カップリング
法が条件プログラムへと固定されているからといって、ほかの機能システムが、法に依拠することによって目的プログラムを打ち立てるということまでもが排除されるわけではない。たとえば、
- 政治の目的プログラムは、憲法に依拠している
- 教育システムの目的プログラムは、教育の義務、施設の整備、親の持つ権利と義務に依拠している
- 経済の目的プログラムは所有権に依拠している
というように。 しかしだからといって、目的それ自体が法となるわけではない。法が与えるのは条件付けられた確実性*にすぎない(‥)。それによって、ほかのシステムの側で、目的選択の範囲をより拡大することができるのである。つまり全体社会レベルで見れば、目的プログラムと条件プログラムが同時に働くことこそが有益なのである72。しかし両者が同時に働くためには、システムとそのプログラムのタイプとが分離されている必要がある。[p.220-221]
71 さらに[‥]《構造的カップリング》を通してふたつのプログラムの共作用を確立し、通常化することによって、と付け加えておこう。
コードの再帰性:道徳と法の違い
[コード化と〈手続き〉の関連性について。p.226-230]
このように〈手続き〉を通して再帰性を打ち立てた規範秩序は、法以外には存在しない。たとえば道徳のうちにそのような再帰性を発見することは出来ない。おそらくこの点にこそ、この二つのコード化を境界づける決定的な基準が存在している。この基準のゆえにこそ法は、道徳とは異なって、オートポイエティック・システムでありえるのである78。
- 法だけが、ハート以来くりかえし論じられてきた 二次ルール を用いることが出来る。
- 法のみが、法に則して自身を疑いうる。
- 法のみが、誰かの不法を適法に立証することを可能にする諸形式を、その手続きにおいて用いることが出来る。
- 法の問いに関する暫定的な決定不能性という、含まれるのでも排除されるのでもない境界値を知っているのは、法だけである。
道徳が、コードのコード自身への適用という問題を扱うことが出来るのは、根拠付けの討議というかたちにおいてだけである。すなわち、倫理という形式において、ゼマンティク上の抽象を経ることによってのみ、である。この抽象によって、方向付けを与える[コード]値としては不明確なものにならざるをえないのである。[p.230]
再帰性の有無が「決定的な違い」だと言われているのか? しかしなぜ??
コード(←構造)-と-プログラム(←規範⊂構造)の経験的な地位
法のオートポイエーシスは、統一的な作動様式に依拠している。この様式の中では、作動の生産と構造維持(構造変動)とは区別されうるが、分離できない79。
79 第2章II節を参照。したがって、コードとプログラム(規範)は、固有の特質を備えた事態としてあらかじめ存在しているわけではない。コードとプログラムが、[‥]独自の存在を持つようになるなどと考えてはならない。それらが観察されうるのは、あくまでコミュニケーションにおいてのみである。
観察者がコードとプログラムを構造として指し示し、記述することはもちろん可能である。しかし経験的にみれば、それらは常に、システムの作動によってのみ与えられるのである。
- コードによって、システムに 帰属する/帰属しない という区別が可能になる。
- 合法と不法を振り分けるプログラムのほうは、妥当/非妥当に関する判断の対象となる。
それらはシステムのオートポイエーシスの契機なのであり、それ自体として持続的に存在するものではない。[‥] [要素の]生産と構造形成は一度に実行されなければならない(システム自体が両者の統一体であり、またそれを可能にするものだからである)。[第5章VII p.230-231]
→第2章II節:
- 構造は、コミュニケイティヴな出来事を結び付けられるために用いられることによってのみ、リアリティとしての値をとる
- 規範は、明示的にであれ暗示的にであれ、引用されることによってリアリティをもつ
- 予期も、リアリティとしての値を持つためには、コミュニケーションのなかで表現されなければならない
したがって、システムがもともと備えていた巨大な適応能力の秘密は、単に忘れるということのうちにあったのである。あるいは、構造をあたえるはずの予期が再び用いられ葉しないということのうちに、である。それゆえにこそ、文字の発明は撹乱効果を発揮したのだった。[‥]以上のような、システム理論にもとづく研究プログラムを実行するためには、オートポイエティックな再生産を行う作動を、十分に正確なかたちで指し示しておかなければならない。
生物学の領域なら、生化学の研究を踏まえて、この点に関するコンセンサスをあてにできるだろう。[‥]
社会システムの理論の場合、このようなコンセンサスを前提とするわけにはいかない。[‥]法学自身は、テキストを扱う学であるから、この点についてはことさら論じる必要はないと考えている。
法社会学のほうはといえば、ほとんどの場合、行為あるいは行動というあいまいな概念で満足している。そして行為が法特有の内容を帯びるのは、行為者の観念ないし意図によって──すなわち行為の《思念された意味》によってであると仮定しているのである。われわれはこの議論で満足しているわけにはいかない。[‥]意識して法に定位しようとする人は、そのときすでに、自分の行為の意味を知っていなければならないはずである。つまり、法という社会システムがすでに構成されているということを、──あるいはこのシステムの沈殿物としてのテクストが存在しているということを──、である。そして自分自身をそれらに関係付けることが出来なければならない。いかなる作動が法を法として産出するのか‥‥ その問いへの答えが前提とされていなければならないのだ、といっても良い。[‥]
したがって、オートポイエティック・システムは、特定のタイプの作動と結びついていることになる。後続する作動の産出に関しても、構造の形成に関しても、である。言い換えるならば、作動と構造の間には、《本質の相違》も《素材の相違》も存在しない。細胞の生命過程においても、酵素が同時にデータでもあり、産出要因でもあり、またプログラムである。
全体社会システムの場合には、同じことがあてはまるのは言語である。それゆえに、法システムを記述するに際しては、「規範はコミュニケーションとは別の実体や性質を備えている」と前提することはできない。法システムの作動は 法に関連したコミュニケーションであり、それは産出要因として働くと同時に構造を維持する役目もするという、二重の機能を担っているのである。[第2章II p.44-47]