夕食。購入&読了。
スプラッター好きなひとにはおすすめ。背骨を抜いてグチャグチャに切り刻んで砂糖水に漬けたあとで日干しにされたルーマンと出会えます♪
- 作者: 大黒岳彦
- 出版社/メーカー: NTT出版
- 発売日: 2006/09/09
- メディア: 単行本
- クリック: 28回
- この商品を含むブログ (29件) を見る
500頁もありますけど内容はこの↓二本に同じ。
てことで購入に迷ってるひとは、その前にまずはこっち↑を読んでみることをお勧め。
ストーリーは、
- ルーマンの謂う〈意味〉は、あくまで〈言語的〉なもの。それがダメ。
- ルーマンは、〈意味〉の自己運動に なんでも回収しつくそうとしているからダメ。
- ルーマンは、世界の階層的存立構造をちゃんと扱えてないからダメ。(以上大意)
という、無内容な──だけど印象操作的ではある──クリシェを隠し持ちながら進み、そしてそれを表明したあとは延々とただひたすらそれが繰り返されることでもって展開されるわけですが。
しかし、そもそもこの↑主張自体が 検討され・その正当性が 示されるべきものであるはずなのに
それはなされぬまま著作が終わってしまうのでした。なんだこりゃ。
‥‥というのを もうちょっとだけ丁寧に敷衍すれば。
大黒さんは、次のabの間に矛盾があるのだというのですよ:
- a:〈オートポイエーシス〉は 非階層的。
- b:〈メディア/形式〉の関係は 階層的。
そして、ルーマン理論は、この矛盾によってほころびがあり、その問題が、晩年に近づくほど bがaを喰い破る形で 前景化してくるのだそうだそうです。大黒さんにとって「aとbは矛盾する」というのは自明なことであるらしく、残念ながら、本書のなかには この見解が ちゃんと検討されている箇所はありません。どうしてこうしたブッとんだハナシがデキちゃうんでしょう。言いかえると、なぜこれは大黒さんにとって自明なのでしょう? ──その理由は?
「外在的」な言い方をすれば:
それは、大黒さんのルーマン読解が (ルーマンを読む以前から大黒さんが依拠=前提していたところの) ニコライ・ハルトマン=廣松渉風の 階層構造論的形而上学の寝台にルーマンを乗せて、尺の足りない所は引っぱり/はみ出たところは切り落としてみました♪というタグイのものだから、じゃないですかね。
それに、一つの理論のなかに〈階層的構成/非階層的構成〉が同居しているのが矛盾だというのなら、大黒さんにとっては*、たとえばこういうことだって問題になるはずですね!:
- ルーマンは、一方では「経済的コミュニケーションはオートポイエティックだ」というが、他方では「中央銀行-地方銀行は階層的な関係をもつ」ともいう。これは矛盾している
- ルーマンは、一方では「法的コミュニケーションはオートポイエティックだ」というが、他方では最高裁判所を最終審級とする裁判所間の階層構成をみとめている。これは矛盾している。
- ルーマンは、一方では「コミュニケーションはオートポイエティックなシステムを為す」というが、他方では、〜〜〜ゼマンティク**が階層的に構成されていることを認めている。これは矛盾している。
** なんでもよい。階層的に構成されたゼマンティクなど無数にあるから。
もうちょっと「内在的」にいうと:
大黒さんにこういう議論が可能なのは、要するに、〈システム・リファレンス〉について──したがって/つまり〈システムの作動〉について──真面目に検討していないから、じゃないでしょうか。言い換えると。
大黒さんは、「この、〈メディア/形式〉なる区別をもちいて、どんな研究プログラムをたてることができるか」という問について、ちょっとでいいから想像力を働かせてみるべきだったと思うのです。そしたらすぐに、次のことに気付けたはずですから:
- 〈作動〉の特定なしに〈メディア/形式〉の特定は できない。そして、
- この〈作動の特定〉──つまり「システムリファレンスを挙げること」──という課題を糞真面目に受け取るなら、特定の局面における〈メディア/形式〉の「階層関係」 も、やはり作動のほうへと差し戻して扱われる。
- その限りで、それで特に(理論的な!)困難は生じない。
- すなわち、「階層構造論」を採らないルーマンにとっては、ここにはなんら「困難」はない。
‥‥と。
ところが。
〈作動〉ではなくて、「階層」の方を優先的にあつかう という理論的先行決定を下している場合は──な る ほ ど──これは問題になるでしょう。つまり たとえば大黒さんにとっては。
なぜなら、或る事柄を「階層」として──つまり「階-を為した-層たち」として──見るためには 複数の〈層〉を一望する視点が必要だけど、まさにこのことは、「システムリファレンスを挙げよ」というシステム論の格律と 激しいコンフリクトを引き起こすからです。でもこれ要するに、「階層論的前提をとった場合には」それが大問題となってしまう、ってだけのこと(^_^
そんなわけなので。
「ルーマン社会システム論の限界」と大黒さんはコトアゲするけれど。問題のないところに問題を勝手に立てて、それが「解ける」とか「解けない」とか言ってしまう、そういう振る舞いをしちゃうのは、「階層構造論」の側に「限界」があるから、ってだけのことですよ。
‥‥おなじことを問のかたちで定式化してみれば。こんな感じ:
それで? 大黒さんは、〈メディア/形式〉というペアを、実際の・或る コミュニケーションについて(の記述において)、どのように 特定specify できる(と考えている)のですか?
でまぁ、
それならかわりにどうすんのよ、とおもったら──これは論文でガイシュツだけど──
そこで身体ですよ。 (大意)
と....。
んで。
その先どこいくのかとおもったら──これも論文ガイシュツだけど──
- [1] 意味的-認知的-世界じゃなくて相貌的世界ですよ。 (大意)
- [2] 行為じゃなくて行動ですよ。 (大意)
ですか。いやー....。
あのね。[→2]
そもそもルーマン先生は、
- 〈行動/行為〉の区別を〈意味〉でもってマークする という社会学の通常のやりかたはいろいろ問題があるよたとえば、行為論と知識社会学が分断されちゃってるってのもそのひとつの症状だよ。だから、そういうやり方はやめて、〈行動/行為〉という区別を前提にしたうえで、二つの研究プログラムを「統合」しようったって、そりゃできない相談だよ。
- 主導的区別を〈体験/行為〉に取り替えて やりなおしましょう
と、提案してたわけですよね*?
で?
その議論を「内側から破る」と称して検討した結果が、
そこで行動ですよ。 (大意)
ですかそうですか。本当にありがとうございました。
*〈社会システム研究/ゼマンティク研究〉という 研究プログラムのペアは、もとをただせば ここ──〈行為/体験〉という区別──から出てくるんだぜ?
んで他方。[→1]
「相貌的」のほうは廣松ジャーゴンなわけだけど、これって──御大が自分で言ってるとおり*──ネタもとはカッシーラーですよね。そのネタもとのタイトル、大黒さんも覚えてないはずないんだけどなー....
象 徴 形 式 の哲学
ですよ**。ねぇ?
なんで ここ↑から──よりにもよって──「意味的じゃなくて***行動的」なんて議論を引っ張り出してこれるのさ。どうやって? もー。お母さん哀しいよ?
- 作者: 廣松渉
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1996/12/06
- メディア: 単行本
- この商品を含むブログ (4件) を見る
*** たとえば「意識的じゃなくて」とかなら そりゃありうる話だろうけどさ。
il||li ∧∧ /⌒ヽ) ..,,....〜(,_,,,).....,,,,....
んで。
挙句の果てに、「ルーマンを社会(科)学者の占有から取り返す=哲学として読む」(大意)ですか。
──と。嘆息をもって本を閉じた私でしたとさ。おしまい。
あーそうそう。
いちおう書いておくと、「ルーマンには認知主義的な側面があって、そこはだめだよね」ってくらいの指摘であれば、それには賛成ですよ。
「ラディカルな構成主義」とかダメダメな議論だ(と私は考えてます)しね。えぇえぇ。