生活世界システム?──大黒岳彦『メディアの哲学』

【( ´∀`)著者さんと】大黒本【語ろう(°∀°)】つづき。

最終章。

  • 行動の連鎖からなる生活世界システムの下にはさらに──もはやシステムならぬ──(・∀・)ソウボゥ!的世界があるよ。(大意)
  • (・∀・)ソウボゥ!的世界は自他未分化なのでシステムじゃないよ。(大意)
‥‥とかいう話。


ここにはいっぱい前提があるねぇ。しかも、システム・リファレンスがワヤなことになっているような気がするよ?
まず、(・∀・)ソウボゥ!が「わかる」ということは、世界が分節化されているってことだよね(これは当然)。
でまた、自他未分化というときの〈自/他〉は、〈社会システム/その環境〉という区別とは違うよね。

というか、この〈自/他〉未分ってのは、社会システムではなくて、その「参与者」の側の話──ex.〈母/子〉──じゃない?


これって、

  1. 言語/非言語という区別を無前提かつ排他的に使用*したうえで、
  2. それによってあらかじめ「コミュニケーション」という語の含意を(極端に)狭くとっておいたうえで
  3. さらに、システム存立の前提として「反省」をメルクマールにとったうえで、
  4. (以下略)

....じゃないと、なりたたない議論じゃないかなぁ。

だって、まずすくなくとも
  • その(自-他未分の渾然的一体における)分節化 を「意味(=「わかる**」ということ)」と呼んで よくない 理由が ない
し、またさらにいえば、
  • その「自-他未分の渾然的一体」(=統一体)は、社会システムである といいうる可能性が──余裕で──残っている
からね***。
* この区別を排他的に使用する、ということは、同時に「言語なるもの──大文字の言語──が、非言語的なものから排他的に区別できるしかたで、在る」といっているのと同じだよ? だいじょぶ?
** 「わかる」というのは、「わけられている」とか「わけることができる」とかいうことだよ。
*** むつかしいのはただただ、「そんなものをどうやって研究できるのか」ということじゃない?
というか、もっと真面目に考えた方がいいのは、こんなスペキュレーティヴな話を云々して何がおもしろい****のか、ということのほうだと思うけど。
**** 大黒さんの答えが「階層論の導入により相対主義を克服できる((・∀・)ウレシイ!)」だってのはわかってるけどさ。(だけど、それのどこが嬉しいの?)


※ご参考:

デイヴィドソン  ?「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス

デイヴィドソン ?「言語」なんて存在するのだろうか シリーズ・哲学のエッセンス