機能分化と生活世界 - ルーマン『マスメディアのリアリティ』/大黒岳彦『〈メディア〉の哲学』

【( ´∀`)著者さんと】大黒本【語ろう(°∀°)】シリーズ。つづき。

  • 現代社会においては、マスメディアが、そして(社会学を例外とすると)マスメディアのみが、生活世界的リアリティの基盤を構築している(大意)
なる怪釈を、大黒さんはどうやって導き出しちゃったのかな、というのを探るシリーズdeath。


「3-4-9-3 マスメディアと生活世界」[p.414-] あたりをみるとこんな主張がなされているよ。

3-4-9-3 マスメディアと生活世界

ルーマンが日常的会話(インタラクション)やほかの機能的分化システムにおけるコミュニケーションの前提・出発点を「テーマ」というかたちで社会システム全体の共有リソースとしてマスメディア・システムが提供する、というとき、(‥)フッサールのいう意味での本来の「生活世界」は実質的に認めているのであり、それどころかこの「生活世界」をマスメディアによって保証させるという理論的構図をまさに採用している。[p.414]

3-4-9-3-1 マスメディア・システムの特権的地位

 多くの機能的分化システムの中にあってマスメディア・システムに対するルーマンの扱いはまさに別格といってよい。それは彼の社会システム理論の総決算の書である『社会の社会』においてマスメディア・システムが主題的に論じられるのが、ほかの多くの機能システムが登場する第四章「(機能的)分化」においてではなく、第5章の「自己記述」においてであることにはっきりと表れている。[p.415]

前者のほうでは、もう怪釈は前提になっているね。さらに出所を遡る必要があるよ。
後者のほうは、「傍証」的議論のつもりなんでしょうなぁ。

「社会の記述」はどんな機能システムでもおこなうよ。 と こ ろ で マスメディアとか社会科学というのは、世の中のあれこれについて人に伝える ということに特別に指向したものだよ。 だから、それが著作のなかの(特に狭い意味で)「社会の(なかでの社会の)記述」を論じた章において特別な扱いを受けるのは あ た り ま え だよ。
...というわけなので、後者は、ためしにうっかりルーマンを読んでみた少なからぬひとが「(たまたま)自分の専門領域である分野を、なぜかルーマンは特権的な領域として扱っている!」と理解してしまう という例のアレ*の見事な症例になっておるように思われるわけですが。
* http://d.hatena.ne.jp/contractio/20060211#1139644924
こういうことが起こる理由は、ふつうまず自分の専門分野に関係する著作を手にとり、かつ、ほかの著作を読まない
したがって「機能分化」ということで何がいわれているのかを把握するチャンスをもたない
から。‥‥という説を考えてみたがどうであろうか。


というのはさておき。



><

  • 我々の日々のコミュニケーションすべてが「マスメディア」とかかわっているわけじゃない。
    • でも、そこで主題となる多くのことがマスメディアによって提供されたものだ。
    • そしてまた我々は、日々マスメディアが提供するものを前提にして事をおこなう。
      • それは提供されたものをなんらかのいみで「ほんとうのreal こと」として扱っているということだ。
    • ところが、他方で我々はみな、マスメディアによって提供されるものが如何に不明瞭な仕方で調達されているかについて、おおまかにではあれ、それなりに よく知っている。

さて。
マスメディアは我々の日々の生活に対して、膨大な選択前提を提供する。そしてポピュラーな仕方*でこんなことができるのは、およそマスメディアしかない。

  • ならばそれは「マスメディアは特別ななものだ」ということを意味するのだろうか?

‥‥そりゃもちろんそうだよ。

  • それじゃぁそれは「ルーマンマスメディア・システムだけを特権化している」ということなんだろうか?

明らかに ちがうだろ。

は常識に属することだよ。だから、『マスメディアのリアリティ』の課題は、のようなことを指摘するところにあるわけじゃないよ。
そうじゃなくて──ちゃんと(最初と最後に)書いてあるじゃないか──、それはどういうことなのかを言葉にすることだよ。

* 要するに「マス的に」ということだが、それは当たらずともトートロジ。
対比されているのはもちろん、まずは(社会)科学。(そのかたわらには、エンターテイメントと芸術、などなどといった対比もあるけれど。)