ルーマン解読4:高橋徹さんと『マスメディアのリアリティ』を読む

次回朝カル講座の開催日が 2016年 10/05、11/02、12/07 に確定しました。
今回は、高橋徹さん(中央大学法学部教授)をお招きし、1995年の著作『マスメディアのリアリティ』を購読します。
受講受付は朝日カルチャーセンターのWEBサイトにて、8月中旬から開始する予定です。ご予定おき下さい。

講義概要

ルーマン最晩年の著作である『マスメディアの現実』(1995)は、放送局の依頼に応じて1994年におこなった講演がもとになっています。

 一方で本書は、「我々はどのような現実のなかで暮らしているのか」に関する判断材料を、他に凌駕・匹敵するもののない仕方で与えているマスメディアという制度に照らして・その観点から、現代社会のあり方を描こうとしたものです。またその点で、『社会の理論』シリーズと同様の課題を持った著作だといえます。

 他方で、「社会の理論+社会構造とゼマンティク」という著作群が「近代化」をテーマとし、それを主として概念史から素材を借りて論じようとしていたのと比べると、本書にはそうした性格は薄く、またそもそも「ゼマンティク」なる術語自体がほぼ登場しません。代わりにその位置には、(「スキーマ」「スクリプト」などといった)認知科学から取り入れた術語群が置かれています。

 こうした事情に鑑みて、本講義では、

  • 第1講義[高橋担当]において、ルーマン社会理論の中における「マスメディア」の位置を、特に「政治」との関わりにおいて特徴づけることを試みたうえで、
  • 第2・3講義[酒井担当]において、なぜ本書において「ゼマンティク研究」とは異なる試みが行われたのかに注意しながら、テクストに即してその主張を確認してみたいと思います。

※講義では邦訳テクスト(林 香里 訳、2005年、木鐸社)を使用します。お持ちの方は持参してください。また入手できない方はお申込時にその旨をお知らせ下さい。

『マスメディアのリアリティ』に関する3つの質問

(高橋 徹)

Q01. 本書でニクラス・ルーマンが取り組んだのはどのような課題ですか。

 ポイントになるのは、マスメディアが二重のリアリティを構成しているという点です。普通、マスメディアがリアリティを構成するといえば、マスメディアが描く現実のこと(例えば、「少年犯罪が凶悪化・激増している」といったこと)を思い浮かべると思います。そのこともこの二重性に含まれるのですが、ルーマンがまず着目するのは、マスメディアが現実のコミュニケーション過程(システム論の表現を使えば「作動」として)として構成されるという点です。これは、マスメディアの経験的な営みをどのように捉えるか、という課題だといえます。こうした課題は、一般のメディア研究では、放送制度や各国のメディア環境(有力紙・局の傾向やオーディエンスの数など)、あるいは具体的なイシューをめぐる報道のディスコースなどを実証的に調べたりすることで研究の遡上に上ることが多いと思いますが、ルーマンはこの課題に社会システム論化されたコミュニケーション論のアプローチで取り組みました。
 第二の論点は、マスメディアの「観察」によってリアリティがどのように現れるのか(マスメディア自体にとって、またそのオーディエンスにとって)という問題です。このようなマスメディアによるリアリティの構築という論点は、W・リップマンの古典的な「疑似環境」論を引き合いに出すまでもなく、メディア論に少しでも関心を持たれたことがある方にはなじみ深い論点だと思います。この問題に取り組むには、「観察者」としてのマスメディアが何をどのように観察・記述しているのかを再記述する道具立てが必要になります。そのために、ルーマンは自身の社会システム論を基本的な枠組みとしながら、マスコミュニケーション研究、メディア研究において用いられる「ステレオタイプ」「スキーマ」「フレーム」といった術語を自身の議論に組み込もうという姿勢を示しました。

Q02. それぞれの課題に対して、ルーマンが与えた回答はどのようなものですか。

 Q01に対する回答で述べたように、ルーマンはマスメディアが二重のリアリティを構成しているという視点をいわば本書の出発点に据えました。第1の論点(マスメディアの作動)について、ルーマンはマスメディアを社会のなかで特定の役割を担い、かつ独自の論理で作動するシステム(機能システム)として描くことで、マスメディア論をいわば社会理論の土俵に載せました。その理論的な道具立ては、政治や経済、科学のような他の領域に適用されたのと同様のもので、マスメディアのコミュニケーションを独自のものたらしめるコード(主導的な区別)を軸とするものです。平易に述べるなら、そのコードはオーディエンスの注意や関心を集める新奇性の有無だといえます。興味深いのは、ルーマンがマスメディアの内部にそのような新奇性を追求する3つの領域(プログラム領域)を見いだしている点です。簡単にいえば、報道・広告・娯楽の3領域です。報道はその内容の真実性をベースにして新たなもの(ニュース)を日々追求します。広告は、商品やサービスをオーディエンスに訴求したいという明確な意図のもとに訴求内容の新奇性を伝えようとします。娯楽においては、マンネリ化を回避しながら(つまりは新奇性を再生産しながら)日常を忘れるひとときの楽しみを提供します。実際のマスメディアの作動は、これらの諸領域の営みからなる複合体ですが、先ほどこうした3領域の区別をルーマンが自身の理論に持ち込んでいることを興味深いと述べたのは、実際にはこれらの領域にまたがる境界例ともいえそうなケースが散見されるからです。

 たったいま説明したマスメディアのコードや新奇性の追求は、それ自体がマスメディアが何をどのように観察するかを規定している限りにおいて、第2の論点(マスメディアの観察)とも重なっています。そこで重複を避けるために、第1の論点でふれた内容を避けて、もう一つの重要な論点に着目することにします。マスメディアが、その性格から特定の専門知識を前提としない一般オーディエンス向けのコミュニケーションに指向していることは明らかです。生活に忙しく飽きっぽいオーディエンスに対して、マスメディアはどのようにその伝達内容を記述すればよいでしょうか。社会システム論の枠組みでいえば、これはコミュニケーションと意識のカップリングの問題と位置づけられますが、この関係を記述するためにルーマン認知心理学に由来するスキーマ概念を自らの議論に取り込みました。スキーマは、ある事柄をあるものとして直観的に理解させる働き

(例えば、2012年の米大統領選選挙でオバマ陣営が制作したキャンペーン動画にみられたように「円満な家庭生活を営む」オバマを「信頼に値する人物」として理解させる働き)

をします。これによって伝達者はくどくどした説明なしにメッセージの内容をオーディエンスに理解させることができます。こうしたスキーマの働きはこのように直観的なものであるがゆえに、それが当事者に自覚されることはまれです。スキーマの働きを対象化するには、当事者(観察者)を観察するセカンドオーダーの観察者を必要とするわけです。

Q03. こうした課題に取り組むことにはどのような意義がありますか。

 マスメディアの問題といえば、マスメディアによる「世論操作」の問題に関心を持つ方もいるかもしれません。因果的な図式に落とし込めば、

  • 「マスメディアは世論を一定の方向に説得する意図を持っている」
     →「そのために特定の内容を重視した報道をする」
      →「その報道内容に影響を受けた世論が形成される」

といった形になるでしょう。一般の人がマスメディアに対してもつ認識という意味で、こうした考えを「しろうと理論(lay theory)」と呼ぶ研究者もいます。ルーマンの枠組みは、このような因果関係を実際に引き起すには、きわめて大きなハードルがある、もっといえば原理的に不可能であることを示唆します。ルーマンの枠組みでは、社会システムと意識はそれぞれに独自の選択性を持った別種のシステムとみなされます。こうした認識をよく知られた(P・ラザースフェルドらによる)マスコミュニケーション研究の成果をふまえていいかえるなら、オーディエンスはそれぞれに情報に対する「先有傾向(presdispositions)」を有しており、自らが好ましいと感じる情報を提供するメディアに「選択的接触(selective exposure)」をします。したがって、マスメディアによって伝えられた情報の「影響」はオーディエンスが自らの選択性によって自ら作り出したともいえるわけです。

 それでは、マスメディアのコミュニケーションがオーディエンスの考え方を直接左右するような因果関係を仮定することを除外するルーマンの枠組みを一つの補助線として使うと、何が見えてくるでしょうか。一ついえることは、「マスメディアが世論を操作している」というテーゼそのものが一つの「スキーマ」である、という可能性です。スキーマは対象を理解する観察者の側が用いる図式です。したがって、ルーマンの枠組みでみたとき、問題の立て方は「マスメディアが世論を操作しているか否か」ではなく、「マスメディアが世論を操作している」というスキーマがなぜ稼働するのか、その社会的条件は何かという形に組み替えられることになります。

 実はルーマンは、観察者の観察図式とそれを規定する社会的条件に関する研究を知識社会学的研究(例:『社会構造とゼマンティク1・2・3』、『情熱としての愛』)として残しています。もっとも、それらの研究において問題になったのは主に書物に書き記された諸観念・概念であって、スキーマではありません。スキーマ論をマスコミュニケーション研究に導入したD・A・グレーバーは、マスメディアからの情報の洪水にさらされる現代人の情報処理を研究するためにスキーマ論に着目しました。本書『マスメディアのリアリティ』の議論も、そうした現代の情報環境を前提として共有しています。したがって、本書の議論を補助線として現代的なテーマについて考察することは興味深い思考実験になるでしょう。

 最後に一つ、そうした考察の一例にふれておくことにします。例えば、皆さんの目には2005年のいわゆる「郵政選挙」の際に演じられた「小泉劇場」はどのように映るでしょうか。「小泉首相が巧みなパフォーマンスでまんまとマスコミと有権者を踊らせた」と捉えるなら、わざわざルーマンの著作を読む必要はありません。ここでは詳細は省きますが、この問題を考えるには、独自の機能システムであるマスメディアと政治システムの相互関係、さらにはマスメディア内部に同居するプログラム領域の相互関係の視点を交えたケーススタディが必要になります。講座の担当回では、この点についてもお話しして、皆さんがご自身の関心で本書の枠組みを使ってケーススタディを試みるためのヒントを提供できればと思っています。