夕食後半。asin:4757101996
まず、議論の転回点(のまとめ)の箇所をピックアップするよ。
4-1-3-2 システムとしての生活世界
ルーマンは、生活世界とマスメディアシステムとを等値している。だが、本当に「われわれが世界について知っていることは、すべてマスメディアによって知っている」7といえるだろうか? 知の源泉は例外なくマスメディアシステムであると断言してよいのだろうか? そうした認定は「知」を「認知」の対象に限ったことの結果にすぎないのではないか? われわれは生活世界のある部分、いや、むしろ多くの部分がマスメディア・システムによる構成の所産であることを否定しない。にもかかわらず、マスメディア・システムによる構成層を生活世界から引き去った「残余」、それこそが生活世界の核心を成すものであり、その本質である、というのがわれわれの主張である。[p.453]
9頁というのは1章冒頭ですよ。
これは単なる過剰読解(=誤読)なので、突っ込むならほかの箇所さがさないといけないね。
というか、そこを突っ込むのはBBさんにおまかせするとして。
生活世界論は「3-4-9-3 マスメディアと生活世界」[p.414-] でやっているので、そちらを検討する方向で。
4-2 メディアの一般理論あるいは基礎メディア論の構想
■ルーマン社会理論の根本二原理 [p.453-454]
- 作動的構成主義:
社会はコミュニケーションという出来事の連鎖的接続による即自的かつ対他的構成の所産である
。 - 汎メディア主義:
コミュニケーションという「メディア」が社会という「形式」を秩序形成的に創発する
。
■大黒的立場表明:
- 上記二原理を、自らも引き継ぐ。
- しかし、上記二原理は、ルーマン理論体系においては相互に拮抗し排斥し合う異なる原理である。
- が、「形式-メディア」の区別を理論化の軸に据えることで、連携させることができる。
■ルーマンのどこが駄目か。
1. について [p.454]
われわれとしては、(‥)コミュニケーションを「意味」というメディアの水準に限ってしか認めない点を咎めたい
。コミュニケーションは「身体」という異なる次元のメディア水準にあってもまた社会を構成している
。「身体メディア」について考えるべき。- [p.457-458] 「身体」は「意味」の外部にあるよ。
2. について [p.454-455]
- ルーマンにあっては、“メディアの底”が曖昧だった。そうではなく、
汎メディア主義を「意味」というメディアのみによる閉鎖的円環構造において理解するのではなく、「意味」と「身体」という二つのメディアによる開放的階層構造の理説として採用したい
。このことは同時に生活世界をマスメディアシステムとの等値から解き放ち、意味と身体という両メディアにおける階層化的構成の所産として把握し直すことを意味する
。