【( ´∀`)著者さんと】大黒本【語ろう(°∀°)】

isbn:4757101996
本日は、第1部ルーマン以前)&第2部ルーマン・メディア論の構図)

第1部 「ルーマン以前」 1「代表的メディア理論の概観」

第1部は、「旧来のメディア論」の〈エエモン/ワルモン〉分析。


「まとめ」の箇所。 〈いま-ここ〉批判キタ━━━━(゚∀゚)━━━━ッ!!

ところで「反復可能性」って、そもそもフッサールが使ってた言葉だった(のをデリダが引用した)のでは?
1-5-8 デリダから道元ルーマン

(‥) 「現実的なもの」とは、この場合、存在の根拠をそれ自身の内に持つものの意であり、デリダのいう「現前」「起源」と同義である。(‥) 種々存在するとされる「現実的なもの」の原器的基準をなすのは「いま-ここ」(hic et nunc)という知覚現場を措いてほかにない。

それは例えば、オングの「いま・ここ」における「我-汝」間のコミュニケーションの絶対視、そして(‥)「文字」メディアの貶値に窺える。すでに指摘したとおり、この傾向はオングのみならず英米系メディア論グループ全体に多かれ少なかれ共有されている。更に(‥)ベンヤミンに同様の傾向を看取することも可能である。オングや英米系メディア論グループやベンヤミンならずとも、

「いま・ここ」という現場が有する現実感と確実性、「生き生きした現在」(lebendige Gegenwart)の特権性は、誰しも疑うことは不可能のように思われる。だがデリダが衝くのは、この「いま・ここ」の絶対性・確実性・現実性・特権性の自明視なのである。「いま・ここ」という現実は何ら絶対でも確実でもない。それは「別様でもあり得る」(anders sein können)という非現実、すなわち「可能的なもの」「潜在的なもの」(デリダの言い廻しに寄り添えば「反復可能性」)に支えられて漸く成立しており、それに浸食・浸潤されている。[p.143-144]

ということは。 「現実的なもの」はともかくも成立-は-しているってことですよ(この↑主張はそれを前提にしているってことね。──いや、あたりまえだけどさw)。
で。
「現実的なものは(不可避に)可能的なものと共に与えられる」という事情を、「漸く」とか「浸食・浸潤されて」とかといった言葉でもって表現=評価できるためには、「現実的なものは可能的なものとは絶対的に無関係に成立する」というような異様な主張を誰かが(大黒さんのために!)していてくれることが必要ではありませんか。
親切だな。>その人

以上、30代後半〜40代前半くらいのひとがやってしまいがちなフッサール解釈の例。古き良き昭和ポストモダニズム(の爪痕)。

第2部「ルーマン・メディア論の構図」 2「ルーマン社会システム論のメディア論への接続」

目次
  • 2-1 ルーマン社会理論体系にメディア論は存在するか?
  • 2-2 コミュニケーションの構造
  • 2-3 メディア概念の四つの次元
  • 2-4 伝播メディアの変遷
  • 2-5 成果メディアの分化
  • 2-6 メディア概念の第三の系譜──メディアと形式

「テイクノートされてよい」(p.266)箇所いくつか。

2-2-1 知覚とコミュニケーション

「言語的コミュニケーション/非言語的コミュニケーション」──ここではごく常識的な言葉遣いで登場。

[p.170-171]

2-5-14 第二次観察の「超越論」性

ルーマンのプロジェクトはドイツ観念論類似のものだ」(大意)という大黒の大黒的根拠。

[p.245]

2-5-15 第二次観察と社会の自己記述

二次の観察が、「話すこと/書くこと」という区別の出現と相即的である件。
こちらは、「ルーマンのプロジェクトは認知的〜言語的なものだ」(大意)という大黒の大黒的根拠。

[p.249]

→ p.444 も参照。

2-6-6 メディア把握の断層

ルーマンのメディア概念は、ハイダー由来のメディア概念の導入により──「コミュニケーション・メディア」と「メディア/形式」のあいだに──断層が生じているよ」(大意)という大黒。(ここは「主張」されているだけ。)

[p.260]