- 大黒岳彦、2003、「「メディアの一般理論」への視座──N.ルーマン社会システム論のメディア論的位相」、『思想』no.951、2003/07、p.23-
- 大黒岳彦、2005、「「身体メディア」論・序説──ルーマン理論からの内破の試み」、『思想』no.970、2005/02、p.68-
- 三谷武司、2005、「システムが存立するとはいかなることか──ルーマン・システム理論の超越論的解釈に向けて」、『思想』no.970、2005/02、p.113-
三谷論文、p.125。こちらの主張ともっとも鋭く対立する箇所:
…システムという対象がもともと経験的なものとしては概念化されていない以上、システムが演算するとか、選択するといったことは、経験的に生じている事柄ではない。これらシステムの能作を経験的に確認することは、原理的に不可能である。… むしろ次のように考えるべきだろう。そもそもルーマンの課題は、経験的領域に生じる出来事について語ることが、すなわりシステムの水準での存立維持について語ることを意味するような理論装置を見つけることだったのである。自己参照システムとかオートポイエーシスの理論は、こうした要請にきわめてうまく適合したのである。
こちらは
- システムという対象が もともと経験的なものとして概念化されている以上、どうやったら「経験的なシステムを作動に即して研究できるか」を考えないといけない。ルーマン理論がダメなのも、ルーマニ屋の議論水準が──ほとんど20年ものあいだ──一向に上がらないのも、そこをまじめに考えようとしていないから。それをやんなきゃ「社会学への貢献」なんか生じるわけないでしょうに。
と主張しているわけなので。ちなみに二年前のこの見解は、現時点でどれくらい維持されているのかな。
あと、どこで覚えてきたんだこんな言葉→<超越論
いただいたお返事:http://d.hatena.ne.jp/takemita/20070108
論文に反映できるかどうかはむつかしいところですが、(盛り込まないまでも)議論を次のステップに進めるための材料は、査読会議までに 用意しておこうと思います。
大黒論文(2005)、p.74。 これはひどい:
[1] ルーマンに対する一般の評価が大きく分かれるのも、必ずしもルーマン理論の難解さに因るのではなく(…)、むしろその論理構成そのものに因るところが大きい。
[2] ルーマン理論を部分的に“利用”したり、現実に“適用”したり、ましてや事実によって“検証”するなどということは不可能である。
[3] 敢えてそれを試みようとすることは自らのルーマンに対する無理解を告白するようなものである。
[4] われわれはそれを丸ごと受け入れるか、然らずんば、全的に拒否するしかない。
[5] ルーマン理論はわれわれに Ja か Nein かという二値的な態度決定を迫るのであり、Ja を選択したものはルーマンの軍門に下ってルーマンと一体化的に社会システムの存在を信憑し、Nein を選択したものにとってはルーマン理論も社会システムも存在しない。
[6] システムが存在するか否かは、一に観察者の決断に懸かっている。
[7] ここにルーマン理論の all or nothing的な虚構性の根が存するとともに、われわれがルーマン理論に対峙する際のスタンスのとり方の難しさがある。
[8] われわれが取り得る途はルーマン理論の隠された構造、舞台裏の装置を暴くことで円環からの突破口を拓く以外にない。
(ナンバリングと改行は引用者)
居酒屋で決め付け親父にハードに絡まれているような なんとも味わい深い文章である。めまいがする。
[3] までのところはまぁなんとかついていける。[4] から先がいけない。死ぬほどいけない。もうどうしようもない。
[2] → [4] に飛ばなくちゃいけないのは、大黒さんの推論能力と想像力に問題があるからであるし、[6] で なぜか決断主義に飛んでしまうのは、大黒さんが決断主義者だからであるか このあたりで大黒さんの「思考の限界」に達してしまったかのどちらかだろう。
つーか。
「隠されたもの」とか「舞台裏」とかをこそこそと探しまわって「秘密」を暴いてる(つもりになってる)暇があるなら、書かれているものをちゃんと読めよ。隠されていないものをちゃんと見ろよ。
まぁその。要するにわりと単純な大先生的卓越化戦略を弄しているだけなので、こういうのに引っかかるほうが悪い、という気もしてきた。