宴の支度:行為の事後遡及成立説(の謎)


この論文においては、どのようにして「ごもっともな主張」と「ヘンな主張」が共存可能になっているのだろうか。

もうひとつの大きな謎: どうしてこういうヘンな主張が ある種の──しかも個々にはみな優れた──社会学者たちの間に広く受け入れられ、再生産され続けてきたのだろうか*。(ex. isbn:4326652551isbn:4326601604
* 言い換えると、「柄谷=クリプキの爪痕」は、どうしてこんなにも長く残ってしまったのか。
ところでここ→で「そのテのルーマン解釈」をまとめて引用してくれている:http://d.hatena.ne.jp/ced/20060625
もちろん、この件についてルーマンその人に何の責任もない、などということもまたありそうにないことだが。

【ごもっともな主張】:

[a1] ルーマンは、行為はほかの行為との関係のなかで成立すると考えた。
[a2] 行為がなんであるか、すなわち行為の意味は、それが他の何と関係づけられているかによる。
[a3] つまり、構成要素となる行為のおかれ方自体がシステムによって違う。
[a4] そう考えれば、関係付けの種類に応じてシステムが複数あっておかしくない。[p.104]

[b1] 何が-いかなる行為であるかは、それが接続する文脈による。
[b2] 行為があってそれが組み合わされるのではなく、他の行為とどう組み合わさっているかで、何の行為かもかわりうる。
[b3] ここでも関係付けの問題にぶつかる。[p.104]

[c1] システムは意味ある行為によって構成されるだけでなく、行為の意味を構成する。
[c2] 特定の関係を実現し、それとともに他の関係の可能性を潜在的に保持しながら。

厳密にいえば、[a4] は間違っていると思う。ただしこれはルーマンも犯している誤り──ここから「システム類型論」が登場することになる誤り──だけど。(その限りで[a4] は、「正しいルーマン解釈」候補ではある。)
もう少し積極的に敷衍すると:
 単に関係付け-に応じて* システムが複数ある」とだけいえば十分であるところに、「種類」という限定を入れるのがヘンなのである。 ‥‥だってそれ、どこからどうやって持ってきたの?
* ちなみに、「関係付けに応じて」とは、術語で言い換えると「構造に応じて」ということである。
「種類」が限定できる、と──根拠もなく勝手に──考えてしまうと、それに応じて「システム類型」を──根拠もなく勝手に──考えてしまうことになる。 (「種類の数=類型の数」。)
 では「類型」がない場合、はなしはどうなるか。簡単だ。要するに「すごくいろんなシステムが死ぬほどたくさん無数にある」と述べることになるだけである。だから問題は「「システムって死ぬほどたくさんあるよね」という結論が出たとしたらなんかまずいのか?」というところにある。
 この点に関して──「類型」を云々する必要がどこにあるのかを──、ルーマンは述べていない。 そうなっているのは、まずはルーマンが、この点に関してはパーソンズの類型論(相互行為|組織)をそのまま引継ぎ、よく吟味しなかったからである。そして、それですんでしまうような範囲内でしか、仕事をしなかったからだ(ろう)。 つまり、「作動が構造を特定する」ということの含意を──したがって、「どうやって作動に即した記述を行うか」について、ザッハリッヒな仕方では──ちゃんと考察しないで済ませてしまったから、だろう。

[b2] は正しい主張だと思うが、危うい表現ではある。(ここではすでに「事後成立説」が前提になっているからこそ、こういう言い方がとられるのだろう、と想像。)

【ヘンな主張】:行為の事後遡及的成立説

[1] 行為-コミュニケーションは事後的に他者によって成立する。
[2] したがって他者が言及し得ない状況で行為-コミュニケーションを考えることは無意味なのである。[p.114]

[1] がまずおかしいが、[2] もおかしい。すくなくとも「言及し得ない」という表現が不明確である。

自分の部屋で「ダイエット」のために日々金魚運動をしていたとして、しかも、そうしていることを誰にも決して教えないよう・バレないようにしていたとしたら、
これ↑は奇矯な想定ではないだろう
それは「他者に言及されないので行為にはなりえない」というのだろうか。そして、不幸にもバレてしまったときに初めて「行為になる」ことが可能になる、とでもいうのだろうか。
ルーマン自身は もちろんそんなことは言っていない。『社会システムたち』には、独りで行われる金魚運動にも ちゃんと場所が与えられている。(第10章だったと思うけどあとで確認のこと>俺)
ところで、「ダイエット」が とても自明に「社会的な」事柄であることに注意は必要だろうか。(ちなみにルーマンもどこかでダイエットの例を挙げていたので、こういう話を出したのだが。)
それともそういうことが言われているわけではないのだろうか。


この「事後成立説」は、論文の主要主張である「相互作用はシステムとはいえない」を導くための(二つ*の)前提的根拠(のうちの一つ)となっている。たとえばここ:

[相互作用が]明確な自己観察の操作をともなわない、それゆえそのおしゃべりが事後的にまったく別のコンテクストを形成して言及されうることを考えれば、そこに「その場性」を境界原理とするシステムがあったといえるかどうかすら、本当は疑わしい。[p.115]

しかし「事後的言及」を(「システムの作動」にとって)極端に重視した──したがって、ほかの側面を極端に軽視した──解釈を取らなければ、こんな主張は出て来ようがない。

* もうひとつの前提は〈部分/全体〉図式。


想像されるのはこういう事情である: つまり、この解釈には、まえもって特定の「哲学的負荷」が強くかけられている。

「事後成立説」が先にあり、それにあわせた「ルーマン解釈」が行われている[ex. p.107-108]。

‥‥これが、「ごもっともな主張」と「ヘンな主張」の共存 の理由ではないか?


最終的に、佐藤の解釈は、こういうところにたどり着く:

相互[作用]システムでは 隣接するあらゆるふるまいが、いいかえれば、その場に臨在している全ての人間のすべての言動が、たった一つのコンテクストのなかにまき込まれて意味づけられていく。[p.110]

これはいったいどういう状況なのだろうか。具体的に想像することが 私には難しい。あなたにはできるだろうか。←ていうか誰。


【追記】via はてぶ
フロイト=ラカンヴァージョンもあるよ、とφ(..)メモメモ

当然のことながら、「行為の意味が事後的にかわってしまう」ということは普通にあることですし、それが大問題を引き起こすことだってあるわけです。でも、そのことをもって「行為は事後的にのみ構成される」とかという極端な結論を引き出すのはヘンだ ──という程度のことが、ここでは問題になっています。>誰か

「極端な議論」についての詳細なコメントとしてはこちらを参照のこと:http://d.hatena.ne.jp/takemita/20061215/p1
「ことさらに問題となる」ことを扱った議論の例としては、こちらを参照のこと:
記憶を書きかえる―多重人格と心のメカニズム

記憶を書きかえる―多重人格と心のメカニズム


※ご参考リンク: