まぁその..... むにゃむにゃ....
基本的な論点をうまくまとめておられるのではないでしょうか。
「先入観を削ぎ落とし「社会」論じ」ようとするなら、ポモ〜「現代思想」的先入見も いっしょに削ぎ落としたほうがよいんじゃないの?、とかとは思うわけですが。
それはさておき。
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しかし こんなもん、いわゆる「行為の再記述*とアコーディオン効果」という論点でしか**ないですよね。
本当にありがとうございました。
文中
で、書評のこの箇所は、「システムの存立」という論点を──なぜだか──「反省」という操作に直接連結させて論じてしまう という 佐藤さんの議論のキモ(かつ 独自性(!))をうまく拾ってきていると思います。
「今日の話は全体として〜だった」と強引に要約(して打ち切る)というのは、「反省」に相当する操作。
で、書評のこの箇所は、「システムの存立」という論点を──なぜだか──「反省」という操作に直接連結させて論じてしまう という 佐藤さんの議論のキモ(かつ 独自性(!))をうまく拾ってきていると思います。
* ルーマン語でもって呼びかえれば、「セカンド・オーダーの記述」。
ちなみに、すべてのセカンド・オーダーの記述が「反省」であるわけではありません。こちらの記事も参照のこと:
- オートポイエーシスとふりかえり http://d.hatena.ne.jp/contractio/20060819#1155986300
- ルーマンのオートポイエーシス理解はどこが間違っている(とされている)か。その2 http://d.hatena.ne.jp/contractio/20071012#q032
- メモ:システム合理性について http://d.hatena.ne.jp/contractio/20060811#p2
** 「行為の再記述とアコーディオン効果」なんてハナシはつまらん、といういみじゃないよ。たんに、それを「社会秩序たちの存立」に 直接に対応付けて 論じることが間違っている、というだけのこと。
これ、ソシオロゴス論文でも すでに指摘したことだけどさ....。
この議論て、
- 再記述によって行為の「意味」が変わってしまうことがある。
とか、
- およそどんな行為も、再記述の可能性に開かれている。
とかといったことから、──なぜだか──
- すべての行為の存立条件は 再記述──事後的な意味確定──である。
という主張を導いちゃってるよね。
そして、そこから、
- そうである以上、社会的システムなるものは(観察者の構成物としてしか)存立しえない。
なる「帰結」を導いちゃってるわけですなぁ。
だけど、こんな立論が可能なのは、
- 行為だけではなく・再記述のほうだって、特定のレリヴァンス──「行為の地平」あるいは「社会的システムの構造」──のもとで行われるのだ
ということを無視したうえで、
- 行為のレリヴァンスを「時間的順序関係***」という観点だけから捉えようとしている
ときだけじゃない?
まさにこうしたことを無視したときにこそ、私たちは「アコーディオン効果」について留保なしに云々することができるようにもなるわけだけど。
- いかにして人は「アコーディオン効果」に悩むことができるようになるか。http://d.hatena.ne.jp/contractio/20071219#p1
*** しかもこの「時間的」って、「物理的」な──あるいは、外的観察者にとっての──時間順序関係のことでしょうし****。
だから、こんなこと──「行為の事後成立説」──が主張されちゃってるときには もうすでに、「意味は
──したがって、行為の理解可能性も──社会学の基礎概念である
」というルーマンの基本テーゼは、すっかりどっかに ふっとんじゃって・置き忘れ去られちゃってるわけですよ。
タイトルは『意味とシステム』なのになぁ....。
**** ルーマンが──フッサールを踏まえて──、「意味の〈事象的|時間的|社会的〉次元」とかと表現するときの、その「時間的」ではなくて。
時間地平のあり方は「事前/事後」だけじゃないわけだけど、そのことを度外視した場合ですら/少なくとも こうは問えるよね:
- なんで「事後」だけとりあげて論じるの? 「事前」はどこにいっちゃったの?
- 「事象的」とか「社会的」とかはどこにいっちゃったの?