さてまずなにをしようか。
気分が乗るまで写経でもするか。
- 佐藤俊樹, 2005, 「閉じえぬ言及の環──意味と社会システム──」, ISBN:4326601884
ルーマンの謂う〈社会システム〉が、「システムである」とは言えない理由について:
8 全体社会とコミュニケーション[p.115]
[「行為の事後成立性=他者依存性」〜「行為の不確定性」は、次のことを意味する:]要するに、行為-コミュニケーション は 行為-コミュニケーション によって 行為-コミュニケーション たりうる。その意味で 行為-コミュニケーション の産出は autopoietic だが、それは「行為-コミュニケーションがある」ということにつきている。「システムである」とさらにつけくわえる必然性はない。
[↑こちらはゲゼルシャフトについての話だが、]同じことが相互作用システムにもいえる。先にみた意味生成のあり方、すなわち行為の関係付けのあり方[Anwesaenheit→隣接性]自体は説得的だが、それを記述するのに「システム」という必要はない。「対面での意味生成」で十分である。そして、それが明確な自己観察の操作をともなわない、それゆえそのおしゃべりが事後的に全く別のコンテクストを形成して言及されうることを考えれば、そこに「その場性」を境界原理とするシステムがあったといえるかどうかすら、本当は疑わしい。
9 超越論的視点のすべりこみ[p.116-117]
[‥] 相互作用でいうと、1970年代までのように、システムとして行為しないと考えれば、これは要素の産出の点で独自の autopoietic な閉域をなしているが、それゆえにシステムの同一性を立てる操作をもちえない。
80年代後半以降のように、その境界がシステム内で主題化され操作されると考えれば、システムの同一性が担保できるが、今後{ママ}は組織システムと区別しがたくなる。相互作用システムと組織システムとのちがいはまったく相対的なものになってしまう。[‥]
他方、全体社会といわれるものは定義によって autopoietic な閉域をなしており、それゆえ「コミュニケーションがある」につきる。形式論理的にいえば、たとえ「システムでは要素が自己産出される」という公理を立てたとしても、何かが自己産出しているからといって「システムである」とはいえない。それは「システム」の必要条件であって十分条件ではない(必要条件ならどちらかが冗長である)。
「システムである」といえるのは、その「何か」が要素となる、いいかえればその「何か」を要素とする全体なるものが観察される場合だけである。したがって、システムの同一性をたてる操作が経験的に同定されないかぎり、「システムである」は単純な循環論法になる。実際、ルーマンの議論では、全体社会の同一性は「全ての」とか「コミュニカティヴな到達不可能性」(Luhmann 1997:866)といった彼個人の超越論的視点をもちこむことで、あたかも「システムである」ように見えているのである。
これに対して、組織は(以下略)
7 システム描写のゆれ[p.112]
組織システムでは、「組織の行為」でないものとして「個人の行為」が弁別されている(‥)。そういう形で組織の行為/個人の行為という区別自体がシステムにおいても知られている。それに対して、相互作用システムは隣接性というコンテクストづけしかなく、それを操作できない。だとすれば、これは「対面的に話している」または「そこには組織システムがない」と記述するだけで、十分なのではないか。なぜそれをわざわざシステムとよばなければならないのか。これを相互作用システムという単位=統一体Einheit として発見しているのはルーマンであり、システムにおいてそう知られている(ルーマンのいう「反省Reflexion」)わけではない。
ここで焦点になっているのはシステムの同一性の種類ではない。いかなる同一性にせよ「システムである」という理由である。行為を超えてシステムをおく以上、つまり概念装置(説明変数)を1個多くする以上、そうすべき積極的な理由がなければならない。いわばシステムという概念自体の冗長性が問われているのである。
なぜ佐藤さんは、「システムである/ではない」といえるかどうかについて、反省Reflexion の水準で考察しちゃってることを おかしいと思いませんか。