「構造/過程(妥当/出来)の分化」再訪

報告内ではたぶん扱いませんが。
「扱わないでよい」といえる理由はいえないといかんですな。

Soziologische Aufklaerung 2: Aufsaetze zur Theorie der Gesellschaft

Soziologische Aufklaerung 2: Aufsaetze zur Theorie der Gesellschaft

まず、問題の箇所。

  • Luhmann, Niklas, 1972, "Einfache Sozialsysteme", Zeitschrift für Soziologie, 1: 51 - 65. Reprinted in: 1982, Soziologische Aufklärung 2: Aufsätze zur Theorie der Gesellschaft, Westdeutscher Verlag.=1986, 森元孝訳, 「単純な社会システム」, 土方昭監訳, 『社会システムと時間論: 社会学的啓蒙』, 新泉社, 3-40.

1 Anwesenheit 共在 [22→8]

 二人あるいはそれ以上の人が相互に知覚する領野に入ると、この事実だけですでに不可避にシステム形成にいたる。この仮定は、生じた関係の事実性にではなくて、その関係の選択性に依拠している。[‥] システム形成にとって本質的なことは、[‥]共在という条件のもとで不可避にはじまる選択過程が、ほかの様々な可能性からの選択として、つまり選択性それ自体により社会システムを構成する ということである*。 だから まずは**、システムの 生成Genesis が、同時にシステムの構造なのである。つまり、相互作用史が、それに続く過程の構造として働くのであり、システム史から構造を区別するのは、単純なシステムにとって、不要であって、問題的problematisch*** でもある。3節でこのことに立ち戻ろう。

* 引用文中の、「選択過程」が「システム要素」、「ほかの様々な可能性=選択性」が「システム構造」。あわせて「構造のもとでの選択の生起」。
** zunächst を、森さんは「なによりも」と訳している。
*** problematisch は、「疑わしい」と訳されている。


で、3節。

3 Geschichte und Strukur 歴史と構造 [26-→16-]

 人が集まって共通の主題が構成されると、普遍的な世界史から区別されるシステムに固有の歴史が始まる。[26→16]
[‥] ある参与者*が、主題展開の特定の場面で発言しなかったために、他の人が発言し、主題に一定の方向を与えたということが歴史となり、事実Tatsacheともなる**。[26→17]

* ein Beteiligter が「ある成員」と訳されている。これは誤訳ではないけれど──ルーマンの議論では「(組織の)成員」という語が術語的に使われているのだから──まずかろう。
** ここでいう「歴史/事実」という言葉が何を指しているのか というのが、まさに目下の問題。

つづき:

 歴史の生成と妥当という、システムに結びついた選択性に注意を払わなくてはならない。これによってシステム成立のための主題の集中にどんな意義があるかを見きわめることができる。システムの主題(あるいは主題の連鎖)は、システム史の 構成* に二重の機能をもっている。一方では 生成規則Erzeugungsregel として働き、他方ではシステム史を共同で回顧する可能性を開いている。

生成〜過程

 主題により 寄与** が可能になり、寄与が時間図式によって並べられることをとおして***、主題は生成規則として働く。[‥]

妥当〜構造[=回顧+先取り〜過去把持+未来予持]

 [主題が] prominent であり、それが共通の注意の中心であることにより、主題の連鎖は システムの「記憶」を構成し供給する。[‥]**** 主題とは、時間的に継起したこれらの出来事の事項的な選択性であり、それが参与者の注意力と記憶力を部分的にせよ社会的に統合し、予期可能にする。そのことをとおして、システム史は構造になる。何が将来的にもまだ可能であるのかを秩序化し、徐々にずらし、開き、閉じながら。[26-27→18]

* 森訳では Aufbau が「構造」と訳されている! そりゃないよ〜(泣
** 森訳では Beiträge は「意見」と訳されている。ここでは、相互作用における個々の発話のことを指している。
*** いわゆる「順番取り」。
**** ここにある「Was Thema und was Beitrag zum Thema war, wird nicht nur leichter erinnert」を、森訳は 否定文で訳してしまっている。

ここからが問題の箇所:

 システム史が構造としても同時に働くということは、単純なシステム[つまり相互作用]というシステム類型にとって広範な帰結をもつ。[‥]単純なシステムは、たとえば、[「組織」のように]固定した役割の差・地位の差、あるいは[「ゲゼルシャフト」のように]様々な下位システムの分化を形成する別のシステム構造に発展していくことは、[‥]ほとんどない。これが、社会学の普通の概念的・分析的な道具(ex. 役割、地位など)が、[相互作用という]単純なシステムにはほとんど適用できない理由のひとつである。つまりこれは、システム史という機能についていえば、Genesis と Geltung が分化されないことを意味する。妥当とされていることは、それ自体として完全には分化されえず、安定化されえず、それゆえ、むろん改変できない。そうした抽象化作用は、歴史を過去へ押しやり、済んだこととして観察し、ひとつの開かれた未来を構成することを可能にするのであるが、それはゲゼルシャフトシステムや組織システムの水準でのみ可能であり、ゲゼルシャフトの進化の過程でこれらのシステム形成水準が簡単な相互作用システムの形成水準から分化し独立する程度に応じて、達成される28。[27:19-20]


さて。ルーマンのこの主張をもとに、トッシキは、

  • 「妥当と生成が未分化だ」ということは、「システムがそのコンテクストを操作できない」ということだ。
  • →それは「システムがシステムとして行為できない」=「システムの行為とそうでない行為を弁別できない」ということだ。
  • →それならば、そんなものを「システム」と呼ぶ必要はないではないか。

と話を進めたのだった。
この議論は二つの観点から吟味できる*。

  1. 相互作用では、ほんとうに〈妥当/生成〉が未分化なのか?(←ルーマンに対する疑問)
  2. 〈妥当/生成〉が未分化であるということは、ほんとに、「コンテクストを操作できない」「システムとして行為できない」ことを意味するのか?(←佐藤さんに対する疑問)
* ガイシュツの、「どんなものをシステムと呼ぶか」という基準問題をさておけば。


こんなにも茫漠としたルーマンの議論をもとに、にもかかわらず ここまで強い主張ができるトッシキの勇気を、まずは私は尊敬する。と日記には書いておくとして。
さて。


「歴史の生成と妥当が未分化だ」という主張は、いったい何をいっているのか。これを自信をもって解釈することは──少なくとも私にとっては──かなりむつかしい。

ので、報告のなかで扱うつもりはない。トッシキへの反論は、それ以前の地点で可能だし。

さしあたってルーマンの言葉をみれば、それは「抽象化作用によって、歴史を過去へ押しやり、済んだこととして観察し、ひとつの開かれた未来を構成する」ようなことが できない状態、である。そしてまた、そうしたことができる(=分化している)ということは、「システムの構造形成」のために「歴史」だけをリソースとしなくてよくなる、ということである。
 「相互作用において事情はどうなのか」ということをさておいて(!)、訓詁学的解釈屋の流儀でアプローチするならば、ここでまず思い起こすべきなのは、ルーマンが、構造形成のための機能的に等価な複数のやり方をあげていた、ということだろう。 すると、文中の「抽象化」というのが、文献によって「技術化」と呼ばれているものであることに(あなたがルーマニ屋ならば)思い至る。


すると、例はすぐにみつかる。たとえば同じ本の「世界時間とシステム史」。
この論文の第VIII節では、まさに「歴史をどうやって突き放すか」

「歴史に抗して、現在における選択のための 相対的な Kontextfreiheit* をつくりだす制度とメカニズム」[119]

が問われ、それに対して 複数のやりかたが挙げられるとともに[120-122]、そのやり方が──フッサールの名のもとに──「技術化」、「歴史の中立化」と呼ばれているのであった[119]。
「歴史の技術的止揚・中立化・客観化がどのように生じるかは、事例をあげればはっきりする」で始まる p.120 以降の議論で挙げられるのは、

  • 「組織における地位構造」
  • 「非歴史的に使用可能な貨幣によって与えられる計算可能性」
  • 「法妥当の実定性」
  • 「歴史研究による選択関心の中立化」など。

そしてその最後に、「反省」というトピックが登場する。

* ちなみに、ルーマンが ここで《具体的なコンテクストに拘束された/そこから相対的に自由な》という対比をしながら考えているのは──そこでガーフィンケル&サックスの「Formal Structures」論文が言及されていることからわかるように── indexicality のことである。
そして まさにこの言及の仕方が、ルーマンの議論に大きくあやしい点があることを示してしまっている! なぜなら、あたかも過程的/反省的なコミュニケーションが、indexicality から「自由」になれるかのような議論をしてしまっているから。
といったことはさておき。