- 作者: ニクラスルーマン,Niklas Luhmann,佐藤勉
- 出版社/メーカー: 恒星社厚生閣
- 発売日: 1993/01
- メディア: 単行本
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Soziale Systeme: Grundriss einer allgemeinen Theorie
- 作者: Niklas Luhmann
- 出版社/メーカー: Suhrkamp Verlag AG
- 発売日: 2012/11/01
- メディア: ペーパーバック
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そのまんまなまとめというか箇条書きというか:
第1章3節3項[73-75→68-71]id:contractio:19840101:p3 ──Gelten / Geschehen
- 「構造と過程」は、選択過程の再帰性*Reflexivität des Selektionsprozesses の 2つの形式だよ[73→69]。
- それ↑は、生じる物事に対して、個々の選択(=要素)間の関係を 製序・強化 することによって、時間をかけて 対応することだよ。
- 構造と過程は、それぞれの異なるやり方で、じっさいの選択(=要素)に際して、選択性の強化(=選択可能性からの前もっての選び出し)に役立っているよ [73→70]。
構 造 | 過 程 |
---|---|
可逆性: 可能性の限定されたレパートリーein begrenztes Repertoire von Wahlmölichkeiten | 不可逆性: 不可逆な出来事から成り立つ |
《「現に通用しているgeltender」・おなじみの・期待可能で繰り返しうる関係、選好され続ける関係》というかたちで要素間の結合可能性を捕捉 | 《具体的な選択的な出来事(=要素)が、それぞれ時間順に前の出来事に基づいており、互いに接続していること》 =《それ以前の選択/これから予期される選択 が、個々の選択の選択前提とみなされること》によって成立 |
〈あらかじめの選択〉は、妥当なものGeltungとして経験される →Gelten | 〈あらかじめの選択〉は、具体的な出来事のシークエンスとして経験される →Geschehen |
構造を顧慮する際には、〈同調的な出来事/離反的・逸脱的な出来事〉が考量される | 過程を顧慮する際には、〈wahrscheinlichな出来事/unwahrscheinlichな出来事〉が考量される |
個々のシステムが最小限のシステム規模やごくわずかな複合性を有するシステム以上のものになれるのは、システムが選択強化の この2つの可能性を整える*場合に限られており、またそのために十分な時間を活用できる場合に限られている
[74→70]。
第4章第6節「主題と寄与」[212-213→243]id:contractio:19840104:p6
- コミュニケーションが個別の単位として──ex. 警告の呼び声として、救いを求める声として、[‥]挨拶として、[‥]──現れることはまれにしか起こらないよ。
- そうなるためには、複数のコミュニケーションが一つの過程に結びつくことが必要だよ。
- ここで「過程」とは、「多数の選択的な出来事が、交互的な条件づけをとおして時間的に結合されたもの」のことだよ。
- これによって、コミュニケーション過程が、その過程において、過程それ自体に反応できるようになるよ(過程的自己準拠=コミュニケーションについてのコミュニケーション)。
- ex. すでに話されたことを再び繰り返す(補う、修正する)。提言・反論する。
- すると、コミュニケーション過程は、状況のいかんによって理解されたりされなかったりする事態を脱して、それ自体の力能で、理解しうるコミュニケーションが可能となるよ。
- 過程的自己準拠の可能性の条件は、〈主題/寄与〉の差異だよ[244]。
- 主題は、事象次元・時間次元・社会次元において、コミュニケーション過程の構造として役立っているよ[427]。
- 「いかなる寄与が・いつ・どんな順序で・誰によって提供されるのか」が、主題によって決められていない(が方向づけは与えられる)限りで、主題は「一般化」機能をもっているよ。
- コミュニケーションが──もちろん不可避的にそうだというわけではないけれど、典型的には──主題によって(〜言葉を以て)制御される過程であることが多いのはそのせいだよ。
- 主題は、事象次元・時間次元・社会次元において、コミュニケーション過程の構造として役立っているよ[427]。
72年の論文で、「システム史の Gelten / Geschehen が未分化」と言われていたのは、この、
- その場のコンテクストに強く結びついていて、しばしば言葉をほとんど用いずに可能な、[243]
- そのおかれたコンテクストから相対的に独立[していない][243]
- 状況のいかんによって理解されたりされなかったりする [244]
などなど といった事態のことだろう。
だとすると、72年のその記述は、よく(?)言って「勇み足」であり、ふつうに言って「誤り」だったのである。「対面的相互行為」状況において「過程的自己準拠」や「反省的自己準拠」は ごくごくあたりまえに生じうるのだから:
- A:オフィスにこんなに人がいるのはよくないね。
- B:僕たちに出ていけっていってるのかい?
- ただいまより会議を始めます。本日の議題は、…
- 本日の会議では、〜〜が可決されました。
- A: 次回の読書会はいつにする?
- B: 2週間後の月曜でどう?
しかも、同じ論文の他の箇所で ルーマン自身がそのことを──あたりまえのことだが!──認めているのだから。
佐藤さんはここをつかまえて、「70年代と80年代では見解が変わった」と主張しているけど、そうじゃない。70年代の議論のなかで整合してないだけ。ルーマンがいえばよかったのは、これだけのことであったはず:
- 相互行為は特別の反省なしに続いていくし、そうであることが多い。
- 相互行為でも反省的なやりとりは生じうるが、「強い・持続的な」反省は難しい*。
* もちろん、その「難しい」理由は、相互作用システム史のありかたと関わっているだろうけれど。でもそれは──ルーマンのように常識的直観だけにもとづいたスペキュレーションによって議論を組み立ててよいような事柄ではなくて──、経験的な知見にもとづいて考察されるべき事柄だ。
経験的な場面に即して議論を組み立てないから、こういう誤りが生じる。それだけのこと。
ついでにいえば。会議のために会議室を使うのは、物理的障壁をつかって、環境からの影響を受けにくくする工夫の一つであるし、さらに ホワイトボードやプロジェクターに繋げたコンピュータを使って、参加者全員が参照できる仕方で、時々刻々と議事録を書いていく というような──まったくトリヴィアルな(しかし効果的な)──工夫をすれば、かなり「高度に反省的な」やりとりが可能だろう(し、実際ふつーに行われている!)。 そしてどちらも、相互行為が(!)おこなうことである。 また他方、「やりとりのごく一部分だけが反省的=ほとんどが非反省的」という事情は、いかなる「社会システム」においてもあてはまる事柄である。
という話を報告の中に盛り込むかどうかが問題ですが。時間がないし、無理ですかな。