ルーマン「単純な社会システム」2節5

[0205]主題はコミュニケーションを構造化する

[01] こう考えると、すでに主題が単純なシステムの ある種の構造として働いていることがわかる。
[02] もちろんきわめて弱い構造としてであって、たいていの場合その時々の参与者の種類や関心の方向から独立して決定されることはないし、その参与者の交換が長く続きはしない。
[03]この「弱さ」──別なふうに見れば、主題交換が容易であるということ──は、単純なシステムに融通性があるという契機を形作るものであり、同時にシステムの自律性と周界制御が乏しいことを証明している。
[SS:10-756]



  • 主題のもつ構造化機能:二段階選択
[04] 主題のこの構造化を行う機能が現われるのは、とくに主題により二段階の選択が可能となるところである。
つまり──複雑性をさまざまな水準に縮減すること──:
1.主題自体を選択し変更できる。
2.主題の枠内でさまざまな意見の選択ができる。
[SS:04-244]

おなじみの話なので略。「構造とは限定の限定である」



  • 定式化:再帰的コミュニケーション=過程的自己準拠
[05] さらに注目すべきは、生じてくる障害や問題を「定式化する」ことで──すなわち言語で発話のコンテクストに関係づけること、または丸ごと「主題化される」ことで、言うなれば共同の注意の中心にもたらすことで──主題が意識的にもシステムの制御のために利用される場合。
[06] ex. 新人の方を向き、挨拶しシステムに受け容れる[cf. サックス]。
[07] ex.参与者同士による相互作用の弱さを口に出して言う。
ex. 主題自体を主題にする。
ex. 主題の展開を決議事項として提起する。
ex. 主題からの逸脱を非難する。
[SS:04-243]
[SS:10-752]

再帰性=過程的自己準拠」(および「反省=反省的自己準拠」)ネタには二つの側面がある:

  • a)「再帰性」によってどんなことが可能になっているか──その特殊性──を論じる側面。
  • b)「過程的自己準拠」もまた「基底的自己準拠」であること、そしてまた、生じるコミュニケーションのうちの一部分のみが「過程的」になり得る事、を論じる側面。

ガーフィンケル&サックスの議論で焦点化されるのは主としてbだが、ルーマンの議論ではaが前景化する。(ただし、bもあわせて登場する事を見逃してはいけない。たとえば「メタ」なコミュニケーションによる「コミュニケーションの制御」がトピックになっているときも、そのコミュニケーション自体はベタに──つまり「基底的自己準拠」として──生じる。そのことの含意と帰結は、いつも視野にいれておかねばならない。)

なお、70年代初頭には、まだ〈過程的/反省的〉という区別は導入されていなかった。



[08] 最終的に──主題を主題化することとならんで──、主題およびその境界、さらに展開していく可能性についてのきっちりとした理解がシステム制御のために役立つ。
[09] 不都合な主題を避けたり、主題の重要さに応じて慎重に、敏感になり、あるいは距離をとって関係することになる。
[10] たしかに本来の主題が公の主題にされない場合がありうるが、それにもかかわらず、参与者が主題の状態を知り、受け入れ、言い換えでやりくりするからシステムは潜在的に制御されているのである。
[SS:10-757]