第10章「ゲゼルシャフトと相互行為」

[100301] 居合わせること

 相互作用システムもまた、比較的明確にその境界を定めることができる。どんなシステムのばあいでも、その境界が十分に定められるのは、境界を設定したり外部と内部という区別を用いたりするさいに問題となりうることがらが、そのシステムそれ自体のオペレーション能力を用いて処理されうるばあいである。

このことが社会というシステムのばあいにあてはまるのは、あることがらがコミュニケーションであるかどうかが問われるばあいである。あることがらがコミュニケーションであるかどうかは、コミュニケーションをとおしてしか明らかにされない。同様にして、

相互作用システムもまた、十分に確定した境界、少なくとも確定することのできる境界を有している。相互作用システムに関与しているのは、そこに居合わせているとして扱われうるすべての人びとであり、その必要が生じれば、そこに居合わせている人びとのあいだで、そこに居合わせているとして扱われるべきなのは何でありそうでないのは何であるかについて、決定することができる。

[100302] 知覚

 相互作用システムの境界を定めるさいの基準がそこに居合わせていることであるということにより、相互作用システムの構成にとって、知覚過程がとくに重要なはたらきをすることになる。知覚は、情報獲得の一つの形式であるが、コミュニケーションと比較すると、その実現のために必要とされる前提条件はかなり少ない。知覚がもたらすことのできる情報は、それが情報として選び出されコミュニケーションされるということには左右されない情報なのである。このことにより、知覚による情報獲得は、誤謬の一定の原因、とりわけ他者にだまされることや他者の心理システムによって惹起される歪みからある程度まで守られている。進化の点からみても、知覚は、情報を獲得するための原初的であまねくゆきわたっている方法であり、知覚が強化されてコミュニケーションヘと生成しているのは、わずかのケースにとどまっている。

[100303] 再帰的知覚-と-観察可能なコミュニケーション

知覚するということは、まずは、心理システムにとって情報が獲得されるということである。しかしながら、知覚されているということが知覚されうるばあいには、知覚するということはある種の社会的現象になるのであり、すなわち、ダブル・コンティンジェンシーがはっきりと現れるようになるのである。社会的な状況においては、自我は、他我が何かを見ているのだということを見ることができる。つまり、自我は、他我が見ているものもまた、ある程度まで見ることができるのである。

観察可能なコミュニケーションは、この再帰的な知覚に接続することができる。つまり、観察可能なコミュニケーションは、

  • 再帰的]知覚を補うことができるのであり、
  • 再帰的]知覚を明瞭にしたり、また、
  • 再帰的]知覚の範囲を限定することができるのである。
もちろんこうした観察可能なコミュニケーションは、それ自体また、知覚や知覚の知覚を拠り所としている。それゆえ、観察可能なコミュニケーションは、この再帰的な知覚連関に接続すると同時に、この再帰的な知覚連関に組み込まれているのである。

[100304] 再帰的知覚-と-「間接的」コミュニケーション:「間接的」コミュニケーションによる制御:様式化

この観察可能なコミュニケーションは行為として帰属されるのだが、そうしたコミュニケーションと比較してみると、再帰的な知覚は、それに特有の利点を有している。相互作用は、この利点をいわば「資本化」しており、こうした利点を社会が利用することを可能にしている。そのさい、

再帰的]知覚が果たしているのは、とりわけ次のことがらである。

  • (1) 知覚の知覚にさいしては、情報の分析はたいして緻密ではないが、情報摂取の複合性は高い──したがって、広く多くの情報を処理できるがしかし「おおざっば」にしかそれをなしえない、そうした様式の意思疎通を、知覚の知覚は可能にする。こうした様式の意思疎通はコミュニケーションのなかではけっして得ることができない。
  • (2) 知覚の知覚にさいしては、情報処理はほぼ同時におこなわれており、情報処理のテンポはきわめて速い。これに対して、コミュニケーションは、時間上順次におこなわれる、情報加工の様式に依拠している。
  • (3) 知覚の知覚にさいしては、その知覚の知覚を否定することはほとんどできないし、その知覚の知覚について釈明する義務もほとんどない。それゆえ、(たとえそれがどんなにあいまいな情報であるとしても)知覚の知覚によって手に入れた情報と当の知覚によって獲得されている情報とが共通であると強く確信されることになる。
  • (4) 知覚の知覚を介して「間接的」コミュニケーションが(意図的にあるいは意図されることなく)おこなわれるのであるが、そうした「間接的」コミュニケーションの水準では、観察可能なコミュニケーションでの発言を和らげたり強めたり、あるいはまた、それとは逆のことを伝えたりすることができる。このような観察可能なコミュニケーションに平行して同時に進められる過程をとおして、その当のコミュニケーションが様式化されるのである。知覚の知覚は、このようにしてコミュニケーションを様式化するという能力を有している。そのばあい、この「間接的」コミュニケーションの水準においては、観察可能な行為に伴う高いリスクを回避することができる。つまり、この水準は、制御水準として重要なのであり、その発言が冗談であるということやまじめであるということ、性的な親密さの表現、テーマを変えたり接触を終わらせたりするための準備をするということ、相手に対する思いやりや礼儀をコントロールするということ、こうしたことが「間接的」コミュニケーションの水準で制御されるのである13

[100305] The Impossibility of Not Communicating

以上のことと同様に重要なのは、相互作用システムが、こうした[再帰的]知覚能力を用意するにとどまらず、まさしく再帰的な知覚をとおしてコミュニケーションを進めるよう強いられているということである。自分が相手によって知覚されているということを他我が知覚しており、さらに、その知覚されているということをみずから知覚していることもまた相手によって知覚されているということを他我が知覚しているのなら、他我が出発点としなければならないのは、みずからの行動が、こうしたことにもとづき調整されているものとして相手によって解釈されるということである。つまり、このばあい他我の行動は、それが他我にとって好都合であろうとなかろうと、コミュニケーションの一環として相手に理解される。このことは、みずからの行動をコミュニケーションとしてもまたコントロールするということを、ほとんど不可避的に他我に強いるのである。そのばあいコミュニケーションするつもりのないコミュニケーションでさえ、なおもコミュニケーションなのである。すなわち他の人と居合わせているときに、指の爪を熱心に弄ったり、窓から外をみたり、新聞で顔を覆ったりするばあいには慣習に基づいた許可が一般に必要である。そういうわけで、次のことがじっさいに妥当している。すなわち、相互作用システムのなかではコミュニケーションしないでいることはできない14、もしコミュニケーションを避けようとするなら、そこに居合わせないことを選択しなければならない15

[100306] コミュニケーション分化の脆弱さ:再帰的な感受能力と規律化

相互作用システムは、再帰的な自己調整にもかかわらず、知覚の水準では依然としてきわめて撹乱されやすい。知覚されることがらは、社会的な関係において重大な意義を有するばあいもあり、進行中のコミュニケーションのなかへ侵入し、そのコミュニケーションを妨げ、そのコミュニケーションを停止させることができる。知覚の知覚は、こうしたことを防ぐのに十分ではない。
  • 知覚の知覚は、相手もまたその出来事を知覚しているのかどうか(知覚しているなら、その出来事に付与される意義は高まることになる)という基準のもとでもっばらそうした出来事を選別している。
  • 知覚の知覚は、とりわけ関与者たちの身体に対して、コミュニケーションの重要なテーマやコミュニケーションのきっかけを関与者たちに均等に与えるという戦略的な意義を与えている。テーブルクロスのしみは見逃せても、相手の突然の鼻血を無視することはできないであろう。
じっさいまた、相互作用システムにおいて社会的-再帰的な感受能力がますます要求されるようになるにつれて、つまり、社会-文化的進化のプロセスにおいてそうした感受能力が分出するのに伴って、身体に関する規律もまた強まった。しかしながらさしあたっては、失神への傾向もまた、コミュニケーションの続行があまりにも困難になっている状況のなかで相互作用を誘発する明確なシグナルを送る「間違いのない」方法として強まっている。そのさい、このようにして

規律化されている相互作用は、それだけにまたもや計画的な撹乱に傷つけられやすい17。そうした計画的な撹乱は、相互作用システムの防御構造によって、その相互作用システムに対する攻撃としての情報を有していることが確かめられる。

[100307] 「再帰的知覚とコミュニケーション」の二重過程

相互作用システムにおける知覚とコミュニケーションというこの二重の過程は、撹乱されやすく一定のことがらに対して選択的に敏感であるにもかかわらず、ほとんどつねに成立している。
相互作用のかかえている負担や課題は、その一部は知覚という事象にとっての問題、またその一部はコミュニケーションという事象にとっての問題となり、その相互作用のおかれた状況がどのように理解されるのかに応じて、また進行中のシステムの歴史が関与者たちの注意をどこに向けさせるのかに応じて、知覚とコミュニケーションの間で絶え間なく再配分されている。


  • 相互作用システムにおいてもまた、社会システムがコミュニケーションをとおしてのみ成立するということが妥当している。しかしながら
  • そこに居合わせている人びとの間での相互作用においては再帰的な知覚をとおしてコミュニケーションが強いられているのだが、そうした再帰的な知覚によって同時に、一種の「内部環境」に接近することが可能とされている。コミュニケーションの営みは、この「内部環境」をとおして可能にされ、維持されており、その必要が生じればこの「内部環境」をとおして修正されるのである。そのばあい、知覚とコミュニケーションは、それぞれに固有の遂行能力の限界内で、互いに負担軽減しあうことができる。

このようにして、相互作用システムの内部では、コミュニケーションの強化が可能である。相互作用システム以外の社会システムのばあいには、そうしたコミュニケーションの強化に等価なものはまったく見いだせない。

内部環境???



[100308] 「居合わせる」という原理

  • 知覚とコミュニケーションのこのように素早く具体的な連携は、狭い空間においてしか生じえない。いうまでもなく、そうした連携は、知覚可能なものの範囲内でしかおこなわれない。
    • しかし、知覚されうるであろうもののすべてが、だからといってそれだけですでに社会的に重要であるわけはないのだから、知覚可能ということだけでは不十分である。
  • さらに別の選択原理がつけ加わるのであり、
    そうした選択原理として用いられているのは、しかるべきコミュニケーションの実現が期待されるということである。
    知覚可能なものを探るさいに考慮されるのは、いまそこで進行しているコミュニケーションの一要因となっていることがらなのであり、あるいは少なくとも、そうしたコミュニケーションの経過にとって意義あるものとなることができることがらなのである。
    別様に述べるなら、
    知覚可能な意味のとりわけ社会的次元が、選択の基準として用いられている。



それゆえ、このことから、相互作用システムの境界に関するいっそう精確な規定が可能になる。

  • この意味において、そこに居合わせていることが相互作用システムの構成原理であると同時にその境界形成原理なのである。
    そこに居合わせているということで意味されるのは、諸パースン18が そこに一緒にいるということが、[再帰的]知覚の選択をコントロールしており、何が社会的に重要なのかその見込みを明らかにしている ということなのである。

4章6節 主題選択の社会的次元



[100309] 「居合わせること」と主題化

こうした点からしてもまたもや、社会システムが、それ自体とその境界とを選び出しているオートポイエシス的システムだということが確認されうる。具体的な日常状況においてすら、いやまさにそうした状況においてこそ、このようなシステムの自律性は、システムとそれ以外のものとの隔たりを獲得するために欠くことのできないものなのである。つまり、相互作用というシステムは、それがおかれた状況に左右され、あらゆる知覚可能なものによってそこなわれうるのだが、まさにそうした相互作用システムこそ、次の可能性を確保しておかなければならない。すなわち、そこに居合わせているとみなさなければならないのは誰であり何であるか、そこに居合わせている人びとの助けをかりて決定することができるという可能性である。

たとえば、
  • レストランでより楽しくすごすことができるためにはどうすればよいであろうか?
  • 劇場のロビーでうまく待ち合わせることができるためにはどうすればよいであろうか?
  • テレビ番組の撮影をよりよく実行することができるためにはどうすればよいであろうか?
  • バスに乗るためにあるいはただ自動車で走るだけのためにうまく列を作って待つことができるためにはどうすればよいであろうか?
いずれのばあいにおいても、

そこに居合わせているのが誰であり何であるか、決定できなければならない。また、これらの例が明らかにしているとおり、それぞれの状況に対する技術上の影響が強まれば強まるほど、社会的に重要なことがらを規定することは、ますます強制されるとともに、しかしまたますます自律的に!おこなわれるようになる。

[100310] コミュニケーションの分化と主題の構造化機能:相互作用の焦点

 より詳細にみるなら、相互作用システムにおいてもまた、コミュニケーションの継続が相互作用のオートポイエシスにとって必要であり、このことが、相互作用の構造形成を強いており、それゆえに、相互作用の関与者たちは、オートポイエシスと構造との差異にかかわり合わねばならないということが明らかになる。
構造形成が強いられているのは、とりわけ、純然たる知覚から離れてコミュニケーションが展開されなければならないからであり、またこのことは、時間次元、事象次元および社会的次元での限定を必要とするからである。コミュニケーションにとって重要な出来事は、継起しなければならない。そのためには、そうした出来事は、事象に関するテーマによって構造化されなければならない。すなわち、

  • そこに居合わせている人びとがみな同時に話すということは禁じられており、原則として一度に一人だけが話すことを許される19
  • このような構造が形成されると、相互作用システムにおける相互依存は一つの焦点に合わせてととのえられることになる20
  • 相互依存が一つの焦点に合わせてととのえられるということは、社会的次元のなかによりいっそう見いだされるといってよい。そのさい、そのように相互依存がととのえられるということは、リーダーかあるいはそれに類似して特権を与えられた話し手を基軸として進められる21
  • このような相互依存の調整は、その中心点を時間次元のなかにももつといってよい。このばあいには、システムのなかでおこなわれるすべての出来事をしかるべき目的によって整序するという、システムの目的論化が生じる。

どのようなばあいにおいても、このようにして、システムのなかで成立している相互依存が再構成されるのである。すべての要素とすべての要素との(そこまでいかなくとも、多くの要素と多くの要素との)間の(不可能な)相互依存に代わって、すべての(そこまでいかなくとも、多くの)要素と選び出された一つの照準点との相互依存が生じることになる。この照準点において、相互作用システムは、それ自体の統一性をもっともよく表現している。

19:この点に関してゴフマンは「焦点の定まった集まり」という意味で「出会い」という概念を作り出している。(『出会い』) 本書では、これを相互作用システムの幾つかの類型の中のある特殊な類型とみなすのではなく、むしろ、システム形成の力能があがるための一つの必要条件であると考える。何かに焦点が定まっていないのであれば、──すなわち、何らかの構造が選択されていないのであれば──、システム形成は非常に萌芽的にしか、つまりほんの束の間の間しかありえない。あたかも厄介だがほんの短い間甘受せざるを得ないもののようである。

[100311] 可能性の過剰

 相互依存が一つの焦点に合わせてととのえられることによって、とりわけ、そのつど話すことができるのは一人だけであり他の人びとは聞いているなどしてともかく待たなければならないという規則により、相互作用システムに特有の、可能性の過剰が生じる。これを、マカロックにならって「潜在的指令のリダンダンシー」と呼ぶことができる。相互作用システムがその構造の点で柔軟なのは、こうしたリダンダンシーに依拠しており、つまりは、関与者たちにとって共通の注意の焦点となっているものを選び出すと同時に注意の外におかれたままであるものを選び出すことができるという可能性のおかげなのである。この選び出しは、自己準拠的なオペレーションを必要とする。相互作用システムのばあい、その時点においてじっさいに関与者たちの注意の焦点となっていることがらが何であるかは関与者たちによって知覚されており、それゆえそれについて異論の余地がほとんどないということによって、その選び出しは容易におこなわれている。

[100312] 線形的連続という構造原理/中断と再開

 相互依存が一つの焦点に合わせてどの程度ととのえられえようとも、相互作用システムの構造は、コミュニケーションのチャンス(知覚のチャンスではない!)を関与者たちに例外なく分け与えている。このことは、相互作用システムの秩序が成立するための前提条件なのであるが、このような前提条件は、相互作用に固有のものである。しかしまた、こうした前提条件によって、このシステムに特有の、性能の上昇に対する制約が課せられている。相互作用システムのばあい、性能となるのは、情報処理能力であると解されてよい。
とりわけ、相互作用システムでは情報処理が連続しておこなわれなければならないということは、すぐさまきわめて大量の時間を消費することになり、相互作用システムの関与者たちは、その相互作用以外の社会参加がしにくくなる。人びとは、接触を中断し後の時点で再会するとすることによって、このことを切り抜ける。あるいは、こうした中断と再会とをはじめから計画に組み込む。たとえば、聖書サークルの入びとは、毎週決まった時間に決まった場所で落ち合う。しかしながら、このばあい、中断と再会とをはじめから計画に組み込むということは、その点についての取り決めをすでに前提しており、そうした取り決めは、相互作用システムが自由に用いることのできる手段によってはもはや保証されえない。そのうえ、中断と再会とを計画に組み込むということは、関与者たちの動機づけをすでに前提しているのだが、相互作用それ自体のなかで長期間にわたって相互作用への参加の動機づけを再活性化することは、周知のとおり困難である。

[100313]

 最後に、相互作用がおおいに時間に依存しているということにより、相互作用には、分化の諸形式を選ぶ自由がほとんど与えられていない。相互作用は、同時にオペレーションするいくつかのサブシステムを形成するという能力を、ほとんど有していないのである。これに対し、時間の点でみるなら、相互作用は、諸エピソードから構成されている。社会というシステムには、これとは反対のことがあてはまる。社会というシステムの広大さは、まさに諸サブシステムヘの分化を必要としている。その一方で、社会というシステムには、エピソードを形成するために、とりわけエピソードを取り替えていくために、その社会全体を転換するための具体的な拠り所が欠けている。社会がエピソードを形成しようとするのなら、社会は、必要に迫られて相互作用システムに助力を求めなければならないし、諸相互作用システム間の区分という社会全体にとって重要な区分を放棄して諸相互作用システム間のシークエンスをその手がかりとせざるをえない。このような、システムの類型ごとの内部分化の違いは、同時にまた社会と相互作用の分化の意義を明らかにしている。つまり、社会と相互作用の内部分化が相違しているということは、共時的な分化と通時的な分化とが相互に密接に関連するということを可能にしている。